加藤 豊 神父
聖堂が建って間もない教会に着任したことがあります。先輩からも同僚からも「お前は新しい建物のあるところに当たっていいなあ」と言われたりして、そんなことがありました。確かに、それはそうなのですが、そういう教会には当然、新しく献堂された聖堂の借金があるのです。
そうすると、そういう教会の人たちの気がかりは、確実に借金を返すには、どのような集金システムが望ましいか、ということになります。建つまでは皆で必死に献金しますが、いったん建ってしまうと献金額は下がってきます。
着任後、わたしは問われたことに答えるために、旧約の話をしました。「神殿が出来る前、イスラエルは荒れ野で従順だった。しかし、神殿が出来てから堕落が始まった。中でも最初に堕落したのは祭司たちだった。そして民もまた堕落した」。わたしはこれを、「だからこそ新約のわたしたちは、同じ轍を踏んではならない」という意味で言いたかったのですが、言葉足らずだったので、聞き方によっては水を差すような言葉となってしまいました。
そもそも聖堂と神殿とで全くは違うものであります。しかし、何であれ、大切なことは、何のために建てたのか、という目的です。人は誰だって生きた証が欲しいというときがあり、また、自分がしたことの結果に満足しつつそれを眺めたいという思いが当然あります。
しかし、それはまだ「手ごたえ」に喜びを感じている段階であって、本来わたしたちに求められていることは「折が良くても悪くても励みなさい」ということです。たとえ「折が悪い」ときも、文字通り「いつも喜んでいなさい」(一テサロニケ5:16)と言われています。
功績は讃えられ、成果は嬉しいことはいうまでもありません。しかし、キリスト教的な価値観の根底にある喜びは、結果がどうあれ、「どんなときにも感謝する」ことなので、そこに手ごたえが伴わないこともしばしばなはずです(ヘブライ11:1)。
ただ「手ごたえがないとき」にも「感謝」が湧いてくるようなことがあって、しかも、それだけで満足することができれば何と幸いでしょう。それは確かに難しく、無理だと感じる人がいても仕方ないのですが、他人から注目されるかどうかとは無関係に、わたしたちの手の業を捧げる相手が、捧げ物を拒むことはないのです。逆に「順調な仕上がり」はみずからを満足させるための、みずから受ける捧げものとなるような危険もあるわけです。
マザーテレサはいっています。「あなたが造り上げたものを他の誰かが壊すでしょう。気にすることなく造り続けなさい」。
ちなみにわたしは上述の教会の皆さんのお気持ちの負担を想い(皆さん一生懸命に献金してくださったので)繰り上げ返済がいいと判断し、そうさせていただいたのですが、結局そのあと活動費が枯渇したらしく、またもやご迷惑をおかけすることになってしまいました。