加藤 豊 神父
ヨハネ・パウロ二世がのこしてくれた大切なもの、その一つは「対話すること」だった。彼は、ゴルバチョフと、ムスリムの代表者たちとダライ・ラマと対話した。
以前、他の教団に尊敬する宗教者がいた。その頃その人は都内の某宗の某寺で執事をしておられた。わたしもまだ若く猪突猛進だった。飛び込んで疑問に思うことを尋ねてみた。答えてくれたのは執事だけではなかったが、これまたそのときの僧侶たちの受け応えも頭がさがるほど丁寧で誠実だった。
わたしの疑問とは、〇〇○経には斯斯然然とあるが、人間みずから無意味に困難を背負いたくはないはずで、その教説は信者からどう理解されているのか、ということだ。
三人いたうち一番歳若い僧侶が真摯に受け止めてくださり、こういった。「んん、確かに〇〇○経に書かれていますよ」。
そしてその若い師をはじめ、師等が同じような見解を語られた。曰く、困難はどのような人生にも付き物で、それを克服する度に一つ一つ祝福がある、というものだった。決して信じる者が不幸になるという意味ではなく、注目すべきは困難に陥るということではなくて、陥った困難を克服する力もまたそこでは与えられる、という点だという。
わたしは心を打たれたが、それでもなお三人のうち一人の僧侶の話には何か「加持力」が「プラシッド効果」でもあるかのようなニュアンスがあって、わかりやすくそういわれたのかもしれないが、それでは本気で信心に傾倒する人に対して説得力がないのではと感じた。
三人のうちの一番高齢だった師が、先述した執事である。僧侶たちが勧めてくれたこともあって、師が講師を勤める勉強会に一度参加することになった。
聞き手を飽きさせない見事な話術、語り口からお人柄も滲み出る。修行宗教とした峻厳さは全くといっていいほど影を潜め、聞き手の立ち位置まで降りて話をされる気の使いよう。難解なテキストをどこまでもわかりやすく解説する有徳の師に思われた。
講義の後わたしはキリスト教について聞いてみた。その途端、全てが真っ暗になってしまった。
とりあえずわたしは疑問を持てるくらいには大乗仏教の代表的経典である〇〇○経を日本文現代語訳であれ、いったんは読んだからこそ、疑問に感じたことを質問出来たし、師もそれには賢明に回答してくれたのであるが、やはり一つの道を直向きに追求してきたからなのか、キリスト教のことはほとんど知ってはおられなかった。
もちろん、寺院の僧職にある人なのだから、キリスト教のことなど知らなくても当然問題ない。だが一般教養として現代日本の知識人なら誰でもが知っているであろう基本的な知識さえ、欠落しておられた。
師はいわれた。「キリスト教は失礼だ。突然、子供連れで家までやって来て聖書を読まないかといって急にその場で布教を始めようとする」。
わたしはいった。「いえ、その種の人たちは、カトリックでもプロテスタントでもない人たちで、わたしたちは彼ら(彼女ら)と関係ありません」。
師はいわれた。「でも、あの人たちも一応キリスト教なんだろ?」。もし、その後で「カルトの〇〇も仏教だと公言していますよね。しかも自分たちこそが真の仏教徒だと言っています」などと、わたしが問い返してしまったら、もう、取り返しがつかないことになっていただろうと思う。数年後に日本全土を震撼させた大事件が起こるからである。
結論はこうだ。ようは対話がなさすぎる。何がどう違おうと、人間の救済活動に関わる面だけは同じはずであって、火葬場に行けば、神父も、牧師も、僧侶も、神主もいる。人が生き死にする現場で皆、働いている。日本はキリスト教国ではないが、他教や他宗に全く興味がないのではどうやって自分たちらしさがわかるだろうか? 従って出来るだけ誤解なく相手を知っていなければ、協調もまた批判さえもできず、信仰を前提とした冠婚葬祭でさえ商品化してしまい、救済活動はサービス産業と同等な営みとして認識されてしまう。人の生き死にする場ではない場に夢中になれば、祈るという極めて人間らしい行為も合理的には時間の無駄に転落する。
一方、現在、無数の司祭たちが仏教について学び、知識を深めようとし、また、みずからも瞑想法などを編み出そうとするような動きもある。だからキリスト教側の方が相手についての理解があるのだなどと、わたしは決して思わない。どちらに部があるのかといった問題ではない。まして誤解が続いて喧嘩が絶えないのであれば対話もしないほうがいい。
キリスト者が仏教(他宗教)に興味を持つことの動機のほとんどは、あくまでも教会内に方法論として、それらを取り入れることが主な目的で、やはり相手との対話を促進しようという意図ではない。
チラシやポスターの参加申し込みを時折見かける。〇〇○会の○神父が講師を勤める○〇〇祈りの会その他、皆一応にこう思っている。「仏教(他宗教)の知識はキリスト教理解を深めることにもなる」。正論であろう。しかし、それは相手と対話することでは全くない。
そもそも、そう思うきっかけは、ご住職との対話だったのか、ただ、本で読んだだけなのか、問題はそこである。下手をすれば一種の流行りで終わってしまい対話じたいは返って遠のいてしまう。道のりはまだ半ばにも達していないと感じている。
今や、あらためて師を偲ぶ、やはり尊敬に値する。師は、知ったかぶりなど一切しなかった。知らぬことは知らぬままに、経験したことを経験したままに、誤解していることを、誤解したままわたしのような小人に話してくださったのだ。そして、こうした姿勢こそ真の「対話」のための第一歩だということを悟らせてくださったのだ。