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人間苦とその拠り所を求めて(1)

加藤 豊 神父

わたしたちは日々、悩み、困難に直面します。まあ、それはあまりにも当たり前のことだし、また、苦しいだけではない面が人生には多々ありますから一概にこれを良いとか悪いとかといってしまうのは乱暴です。

 

更にいえば、苦しいときの神頼みとばかりに、急激に心の拠り所を求めるのが信仰のあり方なのかといえば、それもまた性急な結論でありましょう。またこれについてもう少しいうならば、信仰そのものの価値は普段から「転ばぬ先の杖」の如く持っているからこそあるのだと考えるのも同様に性急な結論です。

 

以前ある教会の前を歩いていた若い人たちが、通りがかりにふといいました。「宗教なんてないほうがいいよな」。

 

わたしからすれば、世間で一般的なイメージとして語られる「宗教」の観念や、そもそも「宗教」という言葉そのものが既に歪んだものとなっています。この歪みの原因は、わたしたちのようないわゆる古臭い伝統宗教がしっかりしていれば防げるようなものではないかと思います。逆にカルト教団が宗教と呼ばれている現実にわたしたちはもっと危惧を抱いてもいいのではないでしょうか?

 

どのような教団も巨大化すれば組織的な構造を整理しなければならず、弱小だった頃の小回りはもうききません。組織化が進めば社会との折り合いをつけ、無難に運営していかねばなりませんから面倒な事は増える一方です。それらがもとで、当初の瑞々しさは次第に失われていき、その結果、自由奔放にその教団の個性たる救済力は嫌でも低下していくのは目に見えています。

 

つまり、わたしたちは負けたのです。もとより競っていたわけではありません。解りやすく「負けた」という表現にしましたが、曲がりなりにも戦いがあるなら、わたしたちは自分との戦いにおいて敗北したとはいえないでしょうか?

 

それなりに歴史のある教団であれば、その教えの中には必ず目をみはる程の救済力が秘められているはずです。そうでなければ悪戯に千年以上も長続きするはずはありません。

 

合理的には一番、無駄な営みに思えてしまうことがあるにも関わらず、実は必要不可欠な要素が多分にあるが、残念ながらわたしたちはそれを容易に取り出したり、容易く明快に語ったりすることは至難の業です。

 

ところが新宗教(あるいはミニ教団)は活発に小回りがきくものだからその辺が大衆性を帯びた広報力に優れ、そこが優れているからこそ益々、小回りがきく、という進み方をします(もちろん深みが無い分すぐに飽きられてしまうこともありますが)。そして世間では、これらが「宗教」という言葉のイメージを形成していきます。つまり「小回りがきく」だけに目立つわけです。

 

では、日本社会において歴史のある神社仏閣は「宗教」では無いのかといえば、少なくともイメージにおいては「宗教」という言葉に直接に該当するものというより、むしろ「文化」とされているわけです。

 

〇〇市役所に教会バザーのポスターを貼らせて欲しいと申し出たところ、「宗教はダメです」といわれました。

しかし、〇〇市役所の掲示板には〇〇不動のお祭りを告知する大きなポスターが堂々と貼られています。

「〇〇不動だって宗教施設じゃないですか」と問うてみたところ、役所の人はいいました。「いや、これは文化だ。宗教じゃない」。

 

これは疑わしい。無自覚なだけの表面的印象で述べているに過ぎず、救済力がある以上、庶民の信仰を集めていて、やっぱり宗教なのですが、ただ歴史が長い分だけにその雰囲気には一般的な見慣れた光景であるためにさほど怪しげでは無い、ということです。

 

そうです。今や「宗教」とは、日本社会において「怪しげなもの」を匂わせる言葉にまで落ちてしまっているわけです。