加藤 豊 神父
わたしたちは決して怪しいものではありません。しかし、そういう見られ方をしていることからも目を背けることはできません。
一昔前ならば、キリスト教系の幼稚園で聖劇の経験をした園児たちが大人になり、多少なりとも「文化」としての理解も一般的に浸透していたかもしれませんが、今やそれすらも期待できないという気がしています。教養としてのキリスト教さえ、教育の現場ではタブーとなりつつあり、その一方で「クリスマス」も「ハロウィン」も「バレンタインデー」も相変わらず賑やかです。
わたしは仕事柄、火葬場に行きますが、今日でも圧倒的に仏式の火葬が多く見受けられ、無宗教形式のものは案外少なく思われます。いわんやキリスト教式や神式は極めて少ないものです。そこではよくこんな想いにかられます。
「ご住職たちは仏様の教えとは無関係に死者が見送られるような場面に度々、遭遇しているはずだが、遺族の感性と宗旨との間の矛盾がある場合、どのように対応しておられるのだろうか」と。
教会も例えば結婚式で、信者以外の挙式を引き受けることがあります。しかし、商業的な結婚式場やサービス産業のようにはできないので、必ず、「結婚講座」がその条件となっています。
人間の「苦しみ」「救い」というテーマについては、冠婚葬祭が直接的なきっかけとなることは現代において稀で、日本文化に無理なく浸透させていこうとすればするほど、それぞれの教団固有の救済論は一歩引き下がった所に据え置かれていくようなもどかしさを、こんにちの宗教者たちは感じているような気がするのですが、その辺をもう少し学んで見たいと思っています。
おそらく人生には特定の答えはありません。そもそも、生きるのに必死であれば、「これは正しい答えだろうか」と自問自答している時間さえないほどです。しかし、人はある時ふと立ち止まり、振り返ることもあります。そうやって自分と向き合う際に、人によっては座禅を組んだり、また、人によっては聖書を読んだり、はたまた人によっては、滝に打たれた出かける人だっているでしょう。
毎年、「お遍路さん」の参加者は数知れません。カトリック教会にも有名なコンポステラの巡礼があり、これまた自分自身の魂との出会いを求めての旅なのです。しかし、今やそういう営みが既に無駄な時間のように思い込まされてしまう世の中です。
人生を深く見つめ直向きに生きる人たちが、実際に「怪しい団体」に誘われ、引き込まれ、結局わたしたち伝統宗教の関係者たちは今日も敗北の憂き目を見るのでしょうか?
どのような工夫と努力が求められているのか、まことに日々の課題なのであります。しかし、わたしたちのややもすれば見当違いな努力とは別の次元で、心ある人たちはみずから道を求めてはその内容を選択し、時が経てば決断にいたり、ついには労苦しつつも充実した生き方を見つけ出すでしょう。
それが多少なりとも垣間見られたとき、わたしたちは感動を覚え、普段はあまり意識されない心の片隅に置かれた信仰の扉が開かれて、みずからもまた、前向きな気持ちを新たに抱いて進んでいけるのだと思います。