加藤 豊 神父
10月はカトリック教会の伝統ではロザリオの月である。これは典礼暦年における10月7日が「ロザリオの聖母」と呼ばれる記念日だからで、この記念が行われるようになったのは「レパントの海戦」(1571年)がきっかけである。
それはキリスト教徒側がオスマントルコ軍に勝利したことを祝したものであるから発端は決して(というより全く)平和的なものとはいえない。こんにち、キリスト教徒とイスラム教徒とが互いに共存し、平和を実現して行くことが求められているにも関わらず、わざわざ平和的でない起源によるロザリオ月にしてしまっていいのであろうか?背後にあるメッセージに注目することなく、当時の状況をそっくりそのまま現代の教会が良しとしてしまっては、結局、過激なジハードに見立てた相手に対する十字軍的な一方的正義感に即した錯誤を是認してしまうのは言うまでもない。
しかし「ロザリオの聖母」の記念日は祝われ続ける。本来、聖母マリアは「平和の元后」といわれる。そこには様々な要因があるが、それ以上に、ここで重要なのはわたしたちの受け止め方なのである。この記念日の成り立ちを因果関係で語っている限り、それは第三者から見ればキリスト教的な独善そのものに見え、実際にその種の誤解も多くなるのは当然と言える。
思うに、こんにち的な状況における各地の悲劇とそれに対する報道姿勢が問われなければ、キリスト教徒は平和を望み、イスラム教徒はテロを行う、といった偏見に繋がってしまい、益々、お互いを傷つけ合うような傾向に結びつく。
かつて東京裁判で裁かれた日本が、どこまでこの点での説得力を有するのかわたしにも解らない。しかし、どうかこれは、落ち着いて受け止めていただきたいのだが、もとより戦争そのもが、正義と悪を理由に評価できるものであろうか、結局そこでは人が死ぬ。今やイデオロギーで争う時代ではないし、増して宗教の違いで争うことなど、冷静な宗教者であれば一番に回避したいものであろう。
わたしはこの日、みずからのロザリオの祈りにおいて、また、当日のミサ(奉献文中の追悼箇所)において、戦死したトルコ兵を含め、レパントの海戦で亡くなった人たちを追悼したい想いのなか、聖母のご保護を願い求めていた。