加藤 豊 神父
ゆりかごから墓場までとはよく言ったものです。
「洗礼」を受けてカトリック信者となった人は「受洗教会」の「洗礼台帳」に記録されます。「洗礼台帳」に載るわけです。これはいわば戸籍です。というより、お役所のこの種の手続きは、明治政府が日本の近代化の折、この制度を参考としたと聞いたことがあります。
その後その受洗者が赤ちゃんだった場合(幼児洗礼である場合)、7歳(あるいは7歳を境に)に「初聖体」を受け、14歳(あるいは14歳を境に)「堅信」を受けます。「堅信」はこんにちの成人式や昔の元服に似ています。これでその子も一人前のカトリック信者だというわけです。これまた「堅信台帳」に載るわけです。
やがてその子は大人になり、会社の都合で転勤することになったとします。そうすると「転出・転入」の作業を経て引越し先の最寄りの教会に所属することになります。「洗礼」の記録は「受洗教会」に残りますが、「所属籍(信徒籍)」の台帳(カード形式)は「転入先の教会」に送られます。これはちょうど本籍地にいつまでも変わらず戸籍がずっと残ること、また、それに対して住民票は引っ越す度に動くことに似ています。
ところで住民票を取ってからは(その市の住民になると)住民税が発生したりします。これはいわゆる「月定献金(教会維持費)」と似ています。「ミサ献金」はミサを捧げたところに入りますが、「月定献金」はその時に所属している(「信徒籍」が置かれている)教会に入るのです。
この他、冠婚葬祭についても他日にまた触れることができればと思います(「婚姻台帳」や「死亡台帳」もありますからね)。このような記録上の諸々は一見、信仰の本質と無関係に思える、という人がいるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。更に、事務処理の事柄と人の心の問題とは直接関わりがない、と思う人がいるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。
ちなみに、カトリック信者が帰天して後、戸籍に当たる「洗礼台帳」と「死亡台帳」には、その人の死亡記録が記載されますが、そのうち「洗礼台帳」からは、その人が誰から洗礼をお受けになったのかが記録されています(最初に書かれて最後に書き終えるのが「洗礼台帳」です)。特に高齢化社会である現代、時空を超越したようなドラマが台帳の紙面を舞台に繰り広げられすのです。
その人に「洗礼」を授けたのは既に亡くなっておられる一昔前の神父様(そのなかにはわたしがお会いしたことのない神父様も多々おられます)。また当時の主任司祭のサイン、そしてその人が「堅信」を受けた時代の司教様が誰であったかなど(「堅信」の記録は「堅信台帳」にも「洗礼台帳」にも載ります)、それらの様々な記録に続いて、最後にその人の帰天の記録が記載され、そこに今生きているわたしのサインが書かれます。
一人のカトリック信者の生涯に、なんと沢山の人達が関わって来られたことか、しかも、このわたしの前に、なんと沢山の神父様方がその人の人生の節目節目に立ち会って来たことか、その「洗礼台帳」の最後の空欄に、すなわちその人の人生の最後に、不肖わたしが関わらせていただいたこと、それを台帳は可見的にわたしに示してくれるのです。これはまさに時を超えた共同作業といえるのではないでしょうか。わたしは今も既に亡くなられた神父様方と一緒に働かせてもらっているのです。
どうしてこれが無機質で無味乾燥な仕事だなどといえるのでしょうか。