加藤 豊 神父
友人であり先輩である I 神父は、亡くなった人たちと生きている、と感じる。これはいい意味でそうなのだ。彼の内面には、彼に影響を与えた「今は亡き司祭」がしっかりと生きている。
誤解されやすい話だ。だから、こういってしまった以上は、どういうことかをもう少し話したい。聖書にはこう書かれている。
「生きているのは、もはやわたし(パウロ)ではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテア2:20)。
I 神父と会話する度わたしはこの箇所を思い出す。ある日のこと、聖書講座の席で、次のように言った人がいた。
「使徒言行録に出てくるペトロは、まるでイエス様のような威厳がありますね。なんだか福音書に出てくるペトロは優柔不断に見えるのでギャップがありますが」と(使徒2:14-20)。
そのとおりなのだ。もっともそこまでのことは書かれていないが、かつてわたしもそう思ったことはある。これもやはり、「キリストがわたしの内に生きておられる」という状態なのかもしれない。
わたしたちは皆、出会ってきた人たちの影響の元にいる。例えば頑固だと言われる人が、どうやら普段はそうでも無いような人なのに、なぜ、また「そのとき」「そのこと」に関してはたちまち頑固になってしまうのか、といった不思議な事象は、ひょっとしたらその人の内に生きている人が頑固なのかもしれない。それは決して二面性ではない。
そうでなくとも一人の人間には多面性があっても、一貫性によって同一性が保たれるのであるから、いわば意外な一面というだけであろう。実は復活者の内在を実感していたとしても、パウロはその後もやはりパウロだし、ペトロはペトロのままである(ガラテア2:11-14参照)。ようは、憑依とか、変身とかいった次元ではではない場合でも、彼らの内側でイエスが顔を出す。
今日も葬儀だった。故人は、わたしがこちらに赴任する前にもう教会には通えない状態になっておられたので、生前わたしは一面識もない。しかし、やはりこういうとき、わたしは亡くなられた方と出会うことになる。ご遺族の間でその人が生きている。教会の中でその人の存在が消えることはない。その意味で死ぬことといなくなることとは違う。
いつだったか、I 神父はわたしにこういった。「加藤神父さんの強い面はお母さんが顔を出してるときで、やさしい面はお父さんが顔を出しているときだよ」と。人は死んでも、残された人たちの関係性を基盤としてその後も生きる。
だから教会の葬儀というのは「お別れですね。さようなら」と感謝しつつ、「これからもよろしくお願いします」と慕いつつ、捧げられる。