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教話(法話)

加藤 豊 神父

 

忘れ得ぬ宗教者K,S師、どれほど会話をしただろうか?「僧の仕事は説法することです」と、静かに語っていた。

 

他宗教の人とはいえ、彼の語り口、テンポ、アクセントのつけ方など、内容にも増して、話術が独特で、聞く側に一定の印象を残す。もっとも、これらは主に技術的な問題で、この分野においては技術や素材、また内容構成などが全てというわけではない。

 

彼は寺院の住職ではない。とある教団の成員である。にも関わらず、「僧」や「説法」という仏教用語が日本人にはわかりやすいと思ったのであろう。もちろん仏教書や誰もが知る哲学書の類は片っ端から読み散らかしていたようだ。

 

ところで、わたしもまた神学生の頃、教授たちによくいわれた。「今のうちにとにかく本を読んでおいてください。司祭になってからでは読書の時間を取るだけでも大変ですよ」。そして、「説教者に関しては詩人募集と学部の要項に載せねばならぬ状況だ」。

 

甘えたことをいうと、これはかなり手厳しい指摘である。またこれに(つまり「詩人」に)「語り部」の要素を加味しなければならぬであろう。他宗教の方々のメセージ発信をどこまでも追いかけて参考にしてこれを生かす、というほどの時間はおそらくお互いにない。しかし、種々、一同が集う場は幸いにある(ごく限られてはいるが)。

 

この地においては、キリスト教だけに限っていえば、カトリック以外に他の11教派に渡る共同体がある。こんにち、各地に牧師会があるのを見るが、合同礼拝などの企画が毎年行われることはかなり稀な幸ではなかろうか、確かにそこは祈りの場となるが、そこでの教話は語る側も聞く側も興味深々となるはずである。おそらくは、心ある人たちはこういう学びの機会を兼ねてから欲していたように思う。

 

逆に「細かな教義内容はそれぞれ違うのだから」と無意味なものとしてやり過ごしてきた人たちも残念ながら多かったと思う。心と心の特定の側面の接触もやはり一つの対話であろうと思うのだが。