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「自分の量る秤で量られる」

(マタイ福音書7章2節)

 

加藤 豊 神父

 

 度々パスタを茹でては後から後悔しています。「やっぱりちゃんと量らないとこうなるな」と。

 

 デ・チェコの1.6mが美味しいと思うのですが、どんなメーカーのものであれ、やはり茹で過ぎれば膨らみ過ぎます。また、塩も目分量だと足りなかったり、濃すぎたり、それに水加減まで目分量だから、毎回、茹で上がりにムラがあります。で、いうまでもなく、それを食べるのは自分です。食べては後悔し、自分勝手に不機嫌になったりするのですから、最初から適量を目指して正しく量を量らないといけませんね。

 

 さて、そんな矮小なわたしの話はこのへんにしておいて、寛大な人についてお話しします。よく心の広い人のことなどを「あの人はスケールが大きな人物だ」などと評することがありますが、それは、ただ寛大なだけでなく、志も高く、細かいことには拘らないような人もそういわれたりしますね。

 

 わたしたちキリスト者は、その信仰の実践面において、「人を裁くな」というみことばに注目しますが、そこでいわれる「裁き」という言葉もまた、一つの「秤」であって、それは「他者に自分の物差しをあてる」というものです。

 

 人の世は、現実には自分の「物差し」や自分の「座標塾」がどうしても必要なのであり、そういう自分なりの視点なしには、自分の行動さえも定まらないでしょう。とはいえ、あまりに独特で、あまりに小さな秤で他人を量ってしまっては、量られる側はなんだか嫌な気分になってしまうし、まして量る側が我が身にはその物差しでみずからを量らない、となると「それはちょっと」と量る相手に矛盾を感じさせてしまいます。

 

 ところで、最近では、聖書に見られる思想は「因果応報ではない」という主張が、流行のようになってきて、あちらこちらでそういわれるようになり、それは確かにそういう面もあるからなのですが、果たしていいきってしまってもいいものか、と、わたしは密かに思っています。

 

 もっとも、それを否定し難いのは事実です。不条理は「因果応報」では片付きません。例えば旧約聖書の「ヨブ記」では、義人であるはずのヨブがひどい目にあってしまうという何とも不条理な様子が描かれていて、それはヨブの自業自得などでは決してありませんし、現代社会においても多くの人が「因果応報」では割り切れない現実を経験しており、その意味で「ヨブ記」は不気味なリアリティーをもってわたしたちに迫ってくるのです。

 

 しかし「因果応報」では片付かない現実があるとはいえ、それだけを主眼とするならば、わたしたちはただただ運命に弄ばれることも仕方なしとしなければならず(もとより「運命」も「因果応報」もキリスト教の用語ではありません)、「自分が量る秤で量られる」というみことばからは、むしろ一種の自業自得のような訓戒を想起することができるのです。これはこれで、やはりリアリティーをもってわたしたちに迫ってくるわけです。

 

 どうしても量らねばならないような局面に出くわすときはともかく、できれば他人を自分の物差しで量るようなことはしくないものです。「量る自分もその物差しで量られてしまう」というのは避けたい。なぜなら、自分の物差しを自分に当てられた際の狭苦しさを思い浮かべると恐ろしいからです。

 

 ただそれも、そう思う人ばかりではないでしょう。そもそも「自分が用いている物差し」が、どんな物差しなのかを自分で知っているという人ばかりではないかもしれません。だから人はそれぞれ、これを振り返ってみるのがいいと思うのです。そのようにして「物差しの単位や計測可能な寸法」などを全部ひっくるめて確認してみてはどうであろうか、ということですね。

 

 ついつい自分の物差しで、はばかることなく他人を量ることに躊躇しないという場合には、それによって量り返されるであろう自分の物差しについて、自分でもよくわかっていないことが往々にしてあるのではないでしょうか。だから量る側には何の悪気もないのに、なぜか相手は怒っているようなことにもなります。平和に過ごしたいと望む人たち同士の人間関係でありながら、誰も望んでいるはずがないトラブルが起きてしまうという皮肉なことにもなるでしょう。

 

 「スケールが大きい人」という表現はまことに素敵な形容に感じられますが、もっと凄いのは「スケールがない人」でありましょう(変な言い方になりますが)。その人は、いざ自分が量られる側となっても、安心して相手に量らせてしまうことでしょう。自分が量られるときの量る相手がたとえ主であったとしても、そのとき主が用いられる物差しは、実はその人の物差しなのですから。