加藤 豊 神父
先日、牧師会があった。以前にお話させていただいたとおり、当地にはカトリック、プロテスタント全部合わせて複数の教派がある。現在のところ12教派となっている。珍しいのは、他の地域と違い、ルーテルがない。
この種の牧師会が召集される際には、ルーテルが会場提供してくれる地方もあるのだが、当地では、ミーティングは各教派適宜、祈祷会は年二回、一つは巡回祈祷会なのでこれはある意味、教派を超えた教会巡りの要素もあり、もう一つは一致祈祷会、これはそれなりの広い会場が必要なので、隔年ごとにカトリックとフリーメソジストが会場提供するサイクルである。
今年度はカトリックが会場当番だ。礼拝はその日の担当者の属する教派の様式で行われ、皆、そこに集って一緒に祈る。もちろん、教派間の異なる事情からある程度はニュートラルな要素もあるが、特色が目立つような儀式でも皆何らの抵抗もなく一緒に祈る。この点は、いわゆるエキュメニズム週間のそれとは基本的に似ていない。
お互いにとってなるべく没個性的な譲り合いは教会一致に欠かせない要素ではあるのだが、なんとなく「水で薄めた原液」を各派が持ち寄る傾向は否めない。いわば「折衷型」である。これは公平で良い。しかし、定期的に集まることを各派が望んでいる場合、もう一つの公平性は、違いを違ったまま、お互いが許容することも良い方法といえる。
先日の牧師会において、わたしは嬉しくも驚きを隠し得なかった。というのは、先生方からこのようなご教示賜ったからである。今回は会場も担当もカトリックなのだから是非カトリック的に準備をし、司式してくださいと。なんと....。
昨年、フリーメソジストが会場となって行われた一致祈祷会の場においては、わたしはネクタイと背広で参列し、自由祈祷でお祈りさせていただいた。気を使ったというわけではないが、諸教派の方々の手前、そのほうがいいだろうかと、勝手に思っていたのだ。当地に来るまでは、わたしにとってエキュメニズムは、「水で薄めた折衷型」が原則に思えていた。
しかし、よく考えてみれば、主はそもそも一人一人を誰一人として同じ人間にはおつくりになられなかったのだ。金子みすず、ではないが、まさに「みんな違ってみんないい(トーブ)」。それゆえ「同じになること」と「一つになること」とは本来別のことであろう。
もっとも、「心を一つにする」ことを、そのまま「思いを同じゅうする」と言ってしまうこともあるわけで、意味は同じようなものだから、こうした言葉使いは本当に難しい。ただ、厳密には違っていても「一つになること」は可能だし、皆が皆「同じになること」は、よくよく見れば恐ろしい。その人の個性も独自性も全く無視してしまうことにもなるからである。それが解っていながら、人は邪な気持ちを隠すため、「水で薄めて折衷型」に向かってしまうのかもしれない。
むしろ、ここでいう「同じになる」ことを、エキュメニズムの中心に据えることの光と影について、わたしたちは注意深くあらねばならなぬと思った。もとより「同じになること」は「包括主義」を旨とし、排他主義を良しとしない、わたしたちカトリックが信者が最も心がけたいところである。これはおそらく諸宗教の間では特に大切な要素となるであろう。
「父」、「子」、「聖霊」は同じ位格ではないにも関わらず一体であり、わたしたちはその交わりに招かれている。