加藤 豊 神父
いつ如何なる時でも、また、どれほど注意深く物事を進めている時でさえもトラブルは起こります。そして皆こういう。「冗談じゃない」。この「冗談じゃない」ってセリフ、一人の生涯においていったい、どれくらい発せられるのでしょうか?
時々思います。「人生は悪い冗談だ」と(既に以前のコラムにも書きましたが)。ふてくされた言い方に聞こえるかも知れませんが、「冗談」である限り、どうにか、こうにか、笑っていられます(苦笑いかも知れませんが)。そうでないとシャレにならないですよね。「冗談じゃない」とほぼ同様な内容を含むような言葉です。否、「冗談じゃない」のほうが、ひょっとしたらまだ事態を正面から受けとめた反応と言えそうですが、まあ、似たようなものです。「ふざけるな」とか「やってられるか」もまた同じようなものでしょうか。
「人生は悪い冗談」であると、なぜ思えるような瞬間が訪れるのか。そこにあるものは何か、どんな背景や行程の結果であるのか、勿論いうまでもなく、そこにあるのは一言でいえば「不条理」です。「不条理」という言葉から思い浮かぶ作家といえば、ある世代の方々からすればアルベール・カミュでしょう。しかし、当然カミュがそれを暴こうが暴くまいが、人は皆、不条理に突き当たり、困難を感じます。
イエスの生涯、その受難は人生の不条理に対する不条理な戦いであり、不条理に身を投じに行く旅でした。それはまさに普通に考えれば「悪い冗談」にしか思えません。それゆえ弟子たちも着いて行くことに躊躇いを感じます。
しかし、そもそも大なり小なり人類は「悪い冗談」を背負わされており、冗談であればまだ笑えるが(苦笑いかも知れませんが)、「冗談じゃない」と思えるようなことがあちらこちらで生じるのです。それは場合によっては素朴な人間のささやかで慎ましい思いさえも平気で踏みにじるようにして現れたりもします。まことに「悪い冗談」もほどほどにして欲しいと思えるくらいにです。
ところが、そういう不条理に対する一つの決定的なが解答が示されます。ご復活です。こうして、主ご自身のお顔だけでなく、悲痛な表情や苦笑いは平安に満ちた笑顔に取って代わられます。ただし、すぐにではありません。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(マルコ16:8)。
たとえ「悪い冗談」だと思えるような事が幾度あっても、「こんなものさ」と達観しつつ、それを受け入れて(あるいは早く忘れて)人は生きていかねばなりません。その意味で不条理とは辛いものでありながら日常性の一側面でもあります。
ところが復活はこの日常性を超えてしまう一大事です。そうすると人は勝手なもので、今度はそれを怖がります。それでもな墓の前でお起こったことから注意を反らさなかったので、日常性を超えたものとして現前した出来事であるはずのものが今度は全く新たな日常性の一側面として婦人たちには認識されてきます。また、怯えて隠れていた者たちも「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20:20)といった具合に、それまではいろいろあっても笑顔で再会するのです。
この福音書中の再会の場面は、文量からいえば同じく福音書中の不条理な場面よりもずっと少なく、それでいて不条理な場面を一気に飲み込んでしまう勢いに満ち、「悪い冗談」に泣かされていた人たちが「確信に満ちた笑顔」を回復します。それはこんにちでも圧倒的な力の源泉と成り得るものです。