加藤 豊 神父
母親は幼いその子にわざわざ「お母さんはね・・・」と話しかける。いわれてみれば、わたしも教会の子供たちを前に、「神父さんはねえ・・・」といってしまう自分に気づく、相手に対する呼称と事象は、その両者の関係性を表している。
ところで、「ボブ・デュランはフォークソングの神様」と日本のマスコミはもてはやした。しかし(デュランが熱心なクリスチャンかどうかはともかく)、彼はキリスト教文化圏の人だ。だから「え、人間は神ではないだろ、ましてや俺は」と思う。こうした賛辞表現はいつ頃からなのか、かなり古いだろう。
似たような賛辞に「鬼」が使われることもある。よくも悪くも「鬼」には人間を超えた力があるとされ、その鬼たちも悪役ばかりではない。むしろ凄腕を褒めるとき、この表現が使われる。これまた西欧の人が聞いたらびっくりするだろう。「鬼」イコール「悪霊」と誤解されることがあるからだ。
日本の神々は、キリスト教の(あるいはユダヤ教やイスラム教の)神とは全く異なる属性を有する。「仏」もそうであろう。ただ、幸い「日本の神々」は言葉の上で「仏」と分けられている。だからキリスト教の神も「日本の神々」と混同されないために、日本では「かみ」を避けて、その名称たる「主」と呼ぶようにしてはどうか、と考える人もいる。「用語が内容に先行できる」という発想だ。
子供に夢を与え続けたディズニーに敬意を表して「ウォルト・ディズニー神社」を作りたいと思う日本人ディズニーファンがいても(いないとは思うが)それはおかしくない。なぜならそれは素朴な「神道」の感覚であろうから(勿論この場合「祀られる」側の気持ちが考慮されねばならないのは当然であるが)。
「人間もやがて神々の列に加えられる」のが一つの流れとなっている「神道」、そして「神がわざわざ人間になるという奇跡」を強調するキリスト教、それらの両者がその信仰対象に使っている語は同じ「神」という語である。だから「誤解を避けるために」という「秩序付けの分類衝動」が疼いてしまう人がいるのは無理もない。そして「用語が内容に先行できる」と思う人にはこの傾向がとても強い。
キリスト教のコスモロジー(世界観)を「無理やり」に日本の神々を当てはめるなら、日本の神々はカトリック教会における天使や聖人に相当しよう。これも内容から発想したことによる「当てはめ」で(詳細に差異があるが)、用語の問題はその後は(お互い理解が成り立った後には)ほとんど問題ではなくなる。
昔はこんなこともあった。「大日(如来)はこの世界をお造りになりました」(?)知っている人も多かろうと思うが、フランシス・コザビエルは来日当初よく仏教用語を使っていた一例である。そのためか「キリシタン寺」は実は「寺」ではなかった(かといって「教会」かといえば、まあそれは「臨時仮設礼拝堂」といったほうがいいくらいのものだったろう。こうした場合の基準は立派な建物かどうかという外観からの評価ではないのだ)。無論ザビエル以前からこうした問題はあった。「神」という語を使うと「神社の神」と誤解されるから、ということで「日本の神々」ではないものについて語る際、それに注意した形跡もある。
仏教伝来時には「神」と「仏」とは最初から分けられた。しかし、それでも、庶民の間では、仏像を「隣国(となりぐに)の神」として認識していた。それにもともと仏教世界の天部(インド出身の神々)も仏教と一緒になって入ってきたため、その神々もこれまた日本の神々と分けられた。しかし、ここでもやはり後から「習合」が起き、「本地垂迹説」まで語られはじめる(ここでの詳細説明は避けるが)ことにもなる(マハーカーラ即ち大黒天は大国主命と習合することになる)。
本来、仏教に含まれていたインド出身の神々は「天」(デーヴァの音写)という言い方で「神社の神」とは分けられていた。ただ(その「デーヴァ」が漢字音写された語が「天」なのは)中国では「天」が信仰対象(たいへん曖昧な概念とされるがこれはいわば「運命」というものが信仰対象として祭り上げられたような「非人格神」といったところであろうが)であるから、それにも伴っていると考えられる(中国語の神は、日本語の神とは意味が違う)。
ここでもその用語が妥当かどうかの問題はあった(何故なら「天」は「デーヴァ」と同列に置ける概念ではないのだから)。とはいえ、これまでの長い歴史のなかでそれを不都合に感じた人はほとんどいなかった(つまり「それならそれでいいです。ようは内容ですから」といったところだろう)。
道教においては「太上老君」はもともと「老子」。「関帝廟」に祀られているのは三国志の英雄「関羽」である。そのような庶民の信仰対象が「天」の概念と同列に扱われることはないし、かといって「天」の概念はまたチャイナの多くの地域に共通と思われる。つまり「自然志向」の「天意追遵」(あるいは「運命受諾」か)と「人為的」な「神仙思想」の両面を「道教」は持っている。始皇帝がみずからの陵墓を造りつつ「不老不死」の良薬を求めた両面性にそれは見てとれよう。時を経て彼らから見て「夷狄」の信仰だった仏教がやってくると、何と梵語のデーヴァに「天」が使われた(こうして本来の「天」の絶対性が半神の相対性の語となった)。だからといってこれを「翻訳の失敗」といってしまっていいのであろうか?
日本の仏教伝来時に入ってきた「天部」(諸天善神)の信仰(あるいは崇敬、台密では「信仰」でもいいと思うが)は、元来、如来から見れば我々人類と同じく「衆生の一部」であるにも関わらず、中国語の「天」(天の概念は上述の通り)が着く。しかし、これをして「翻訳の失敗」といってしまっていいのであろうか。
ザビエルから見れば「いわゆる」、「多神教」世界の神々」は、どうやら超越的存在である「主」とは分けたほうがよいと思ったはずだし、まして仏教には、キリスト教文化以前の(日本古来の神々と、インドやチャイナ起源の)神々が曖昧模糊と崇められていたのだから、益々戸惑ったことであろう。
こんにち、キリスト教、ユダヤ教の神の名は「主」なのだから(キシスト者は「父」と呼ぶが)現代日本においても、日本の神々と性質上違うキリスト教の神は「主」(かつては「天主」といわれた)という言葉でもって混同を避けるべきだという意見もある。わたし個人は、これにはあまり意味がないと考えている。ギリシア・ローマの神話における「Deus」は、そのまま教会ラテン語で「デウス」で使われたし、その異教世界にキリスト教が入り込んだからといってどうしようもない混同が見られた、というほどのことはなかったろう(後のキリスト者迫害の原因は用語などではなかった)。むしろ横行したのは正確には「混同」や「混乱」ではなく「比較」であった。即ち「イエス様のほうが、アクレビオス様より病気治しに秀でている」といった実に庶民感覚によるリアリティーに基づく「比較」である。
ザビエルの「大日は世界を・・・」も結局は誤解も理解もその後の問題として残っただけであって、今からまたあらためて「主」とか「天主」(これもデウスの音写である)に書き換えたところで、どうなのか。
雷神ゼウス(ローマではジュピター)、火神マース(インドではアグニ)、水神ガンガー(ガンジス川の神格化)、酒神ヂオニュソス(ローマではバッカス、インドではソーマ)、太陽神アポロン(日本ではアマテラス)。そういう古代神話的背景を生々しく感じてきた人たちでさえ、ミトラス教時代を迎えてもなお「太陽神ミトラス」と「アポロン」が混同された記録はない(実際に「ない」のか「記録されていないだけ」かは不明だと正直にいうが)愚鈍なわたしが普通に考えてもそんな人はほとんどいなっかたのではないかと思うし、むしろあろうことか、(亡くなった人のことを悪くいいたくはないが)カトリックの典礼学教授をしていたある方が、この両神を混同していたのだから悩ましい(また蛇足になるが、もっと不味いのが「第二ヴァティカン公文書」中の「彼ら(ムスリム)は時には聖母マリアを崇める。という記述で「本当に何とかして欲しい」と思い続けている。わたしのようなアカデミックな神学とは程遠い現場の人間の力では解っていてもどうにもならないのだから)。
神人関係を親子関係に見立てているのがキリスト教の特徴かもしれない、と考えると、呼称は、この関係性から見なければ「内容」を伴わないず、虚ろな言葉そのものとなる。まして、どのような信仰対象も結局は「拝まれる神」の位置なのであり、そのなかで「主」という名称だけが仮に広がったとしても(あるいは「天主」に戻ったとしても)、古代の神々との古い絆は人知の及ぶところではなかろう(その延長線上にキリスト教もある、あるいは、キリスト以前の「啓示」にも聖霊の働きを見出せるというのがカトリック的見解であり、神のみ手のなかで全てが営まれるとする、というのはもとよりキリスト教の世界観である)。
表面的な分類もまた問題を複雑化させている。あえて彼らの物言いに合わせて語るなら、こうだ。「唯一神教」や「単一神教」と、「拝一神教」とは、そのパラダイムが全く違ったものであるにも関わらず、単純な「一神教」と「多神教」という思考の枠組みで教義を覗いてみてたところで、「血の通った人間の心のなか」など見えるものではない。
たとえば、法華経には「如来神力品」という記述がある。ここでの「諸仏」はまるで「神々」(否それ以上の存在として)描かれ、そのなかでの「法身仏(本来「仏」には形がないので「法」そのものを身体とする仏とされる存在、法華経においてそれは「久遠実成の釈迦牟尼仏」であるが)は絶対的存在のように語られる。しかもそれはチャイナにおける「天」であると中国人は受け取
るかもしれないし(これは位置付けのことであり、双方に差異があるのはやぶさかでないが)、「キリスト教の神」のようなあまたの自然現象の主催者のようにも思える存在(もちろん同じではないし「思える」ということだが)でもある。
さて、キリスト教は正確には「一神教」ではなく「三一神教」なのだから(このようなやりとりは好きではないが)「子は父より出で(父には根源的な表現が用いられ)聖霊とともに父と一体」という信条があり、カトリック教会のコスモロジーはそれでは
終らないそこから独特のコシもロジーが展開されるわけだ。
それはつまり、「天使」であったり、「聖人」であったり、「天国」であったり、「煉獄」であったり、といった具合にである。神ではなくとも「天使」は「神的ないしは霊的」な存在だし、カトリック信者は聖母マリアや諸聖人にも祈る(信条に含まれないものがあるため祈りかたには大事なポイントもあるが)。ただし、それらは「三位一体の神」と同列には考えられてはいない。
インドにおいては「超越的神格」は神々(半神)とは別格なイメージで語られる(ヴィシュヌやシヴァはこれにあたる)、それ以外は「半神」(これが「天」デーヴァであるが)という分け方をしている。しかしそれはあくまでも「特別な超越的存在」と「一般的な神々」という分け方で、だからここでも「神的存在」と「全き神」との差異はあれど、「神々でなければ神とは呼ばない」というおかしな理屈はない。
日本では「国津神」と「天津神」が分けられるが、その分類として、どちらか一方の「神々」には、「神」という語を使わない、などということはない。
前後するが天使についてはもう少し話そう。「天使」は「天子」ではなく、いわんやギリシア神話の「キューピッド」などではない(キャラクター商品による誤解もまた用語の誤解ではないわけだ)。そして、ユダヤ教にもイスラム教にもキリスト教にも出てくるし(大天使「ガブリエル」のイスラム教アラビア語発音は「ジブリール」となる)、しかも彼ら(本来は天使に「性別」はないので「彼ら」といっていいのかどうかわからないが)のなかでも、ケルヴィム・セラフィム・大天使・天使・守護の天使など、それぞれに独自の役割分担があるとされている。
「天使」は本質的に他の信仰形態には相当する存在が見つかりにくいかもしれない、という点で極めて「聖書的特徴を備えた存在」といえる。だからといって「カテゴリー分けをして混同を防ぐ」という「秩序付けの分類衝動」が疼きだすと、「天使」か「キューピッド」かなどという、「そもそも」「もともと」違うものを引き合いに名称の是非が懸案となったりする。切りがない。「誤解を正そうとする側の認識が誤解された情報によるものとなっている」のである。
だから今やこうした現状を前に次のように思う。「主なる神」の呼称は、かつて日本国において「大日様」から「天主(デウス)様」となった。やがて「天翁様」などの特殊な名称を用いて試みを経てみたが、最終的に「神」で落ち着いた。以来、現代キリスト教信仰の信仰対象は日本において「神」と呼ばれ続けてきた(英語圏ではそのままゴッドなのでこれに何の問題性があるのだろうか)。
それらの過程において用語を差し替えたくらいでは(キリスト教側の内輪の事情にとっては)特に何の影響もななかったばかりではなく、迷惑を被ったのは(つまり「天主」から「神」への変更によって)むしろ「日本の神々」であって(当初はキリスト教側の問題でしかなかったものがキリスト教側における内部への影響以上に他宗教のコスモロジーを侵犯するような結果となってしまった)神社はかなり影響されてしまっている(もともと神道では扱ってこなかったはずの「神前結婚式」のことが先ず指摘されると思うが、それよりも)。今や神社に行けば「どんな祈願を受け付けてくれるのか」というと、驚くべき万能性が求められてしまっている。こうした現実のなかで生きるわたしたちにとって、信仰対象の呼称以上に最も重要なことは、庶民がリアリティーとして感じる「比較」のほうであって(相違点や類似点)、ようはお互いの信仰の「内容」を知られせ合うことが先決なのである(これらの教訓を踏まえるなら「神」から「天主」に戻す前に神社に対するこれまでの責任も考慮されねばならないだろう。無論「神前結婚式」には明治政府が関わっているからキリスト教側の責任とはいい難い面もあるが、だからといってキリスト教側の問題というのは近代化されて以降の日本に少なからず影響力を持ってしまうのだから「用語」を「身内の問題なのだから他宗教のことまで考える必要などないだろ」という理だけで足りるのか、日本社会で生きているのに)。
更に、安易な変更には二重の意味で思いもよらない罠のように、混乱を招く危険が潜んでいる(少なくとも諸宗教対話に関しては)。「大日は・・・」というザビエルの教話を、そこにいた聞き手のほうは仏教の新宗派(ザビエルはインドのゴアを経由して日本にたどり着いたので、その教えは「天竺宗」と呼ばれた。実際にはカトリックのイエズス会だったわけだが)だと受け取ったのだし、そのザビエルからすれば「だって仏教では(密教では)大日如来が宇宙の最高存在の称号なんだろ?全能者であり、第一原因であるところの主なる神ついて何も知らない人たちに対して、天の父を紹介するのには一番適当な概念ではないのか?」となるだろう。これはザビエルでなくても、こうなったかもしれないくらいである。これが一つ。
次に、そもそも、その地その民の「大日」理解(特に現代日本においてはキリスト教側のインテリ層による)したり顔問題も指摘できよう。これが二つ目のことである。例を挙げれば、インドの出身の神々(仏教やヒンドゥー教の神々)のなかで、いわゆるに世界の創造者は「ブラフマン」(梵天)である。これはインテリなら知っているはずだ。だが、しかし、突き詰めて考えられてはいないため、知識としては結果的に曖昧なものとなる「ブラフマン」という語が意味するものは何か、いったい、インド哲学上の「梵我一如」(ブラフマーとアートマーの一致)で解かれる「梵」のことなのか、それならチャイナにおける「天人一如」の「天」に近いことにもなるし、ヒンドゥー教の「トリムルティー」として「ビシュヌやシヴァと同列」に置けるであろう概念ともなる。それとも覚醒後に布教を躊躇った仏陀の前に出現した(即ち仏教側の世界観に基づいた)諸天の一人「梵天」のことなのか。
これは文脈から前後を見ていかなければハッキリしない性格のものであり、高みから見下す視線で「誤解されている用語がこれ以上誤解されることがないようにと注意を促している側の情報が、そもそも誤解だらけのもので埋め尽くされている現実」を露呈する。そして余計におかしなことになてしまう。加えてその「梵天」という神々の一人に限定して話を先に進めれば、いうまでもなく「天部」と「如来」とではまるで違うので(先述した「ミトラス」と「アポロン」の話と類似しているが)。まともな仏教徒であれば「大日如来」と「ブラフマン」を似たようなものだとは全く考えない(ましてや「梵天」ブラフマデーヴァをやである)。
「梵天」は「造物主デミウルゴス」ではないものの確かに創造の神とされる、が、かたや「大日如来」のほうは「真理そのもの」とされる。その「真理そのもの」のもとでのみ、あるいは、そのもとにあってはじめて、「梵天」は「過ぎゆくこの世界」を造り続けることができる。しかし、あたかも「大日如来」がまるで天地創造における根源的存在として(教会内で)説明する人がおり、その根拠はどうやら「全てがそこから出でた」という胎蔵界の世界観の曲解にあるようだ。しかし、それくらいの知識があるなら、仏教の縁起の教義からキリスト教側の「天地創造」理解が生じないくらいのことは推測できるはずなのだが)。とにかく曖昧になり「混乱」が深まるのだが、それは用語でなんとかなることではないのだから当たり前である。
さて、そろそろ終わりにしたいと思う。こうした問題に正しい答えがあるのかといえば、そもそも答えなど先にあるはずもなく、結果でしかそれを判断することができない。ただ、これだけはいえると思う。どのような信仰も知的な側面があることは否めないものの、概ね信仰は身体的な側面を持っている(礼拝行為は特にだが)。つまり「情緒的」「感覚的」側面を、である。
内容に先行する言葉はそこではどれほどの意味があり、どれほどの効果が期待できるのか、という疑問が(わたしだけでなく)多くの人にあるのは当然であろう。それぞれの時代に、それぞれの異文化交流や諸宗教間でお互いの接触が歴史的悲劇に終わってしまったこともある。
だが、それだけでは決してなかった事例も多々あるし、むしろ魂と魂との出会いに開かれ、お互いに豊かさが増したたケースは少なくない。それは常に「内容」と「内容」との触れ合いがあったからであり、用語やその概念は、その後の問題である、といえるのではないだろうか。