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主役、脇役

加藤 豊 神父

 

アカデミー賞をご存知ですね。主演男優賞あるいは女優賞、助演男優賞あるいは女優賞、その他諸々の賞があって、実に一つの作品にどれほどのキャスト、スタッフ、美術、音楽などが必要であるのかが解りますし、それらが揃っていて良い作品が作られており、傑作に関わる全ての人がしのぎを削った結果を競い合うのです。

 

わたしは一時期、助演男優賞受賞者の俳優さんに注目していました。主役のキャラクターを引き立たせる人物となるのは脇役で、その役柄によっては、これは主役を演じるよりも更に難しい演技が要求されてくることでしょうから、俳優さんによっては脚本を見るなり、最初は主役候補だったその人が、「わたしにこの役をやらせてください」と、脇役を希望したりすることがあるわけです。「あるわけです」っていってしまいましたが、よくあるわけではなく、例えばそうゆうことをするのはロバート・デニーロが顕著です。

 

「事実は小説よりも奇なり」といわれるくらい、人生は不思議に満ちたドラマです。一人一人の人生においては、その人が主役です。というよりその人以外の主役はあり得ません。今日日、文章記述にあまり興味のなかった人たちも我が身を振り返っては、いわゆる自分史を書いたりします。ご高齢の方にも多い。内容を問わず、それは二つと無いドラマでしょう。

 

しかし、他人の人生においては、今度は自分は脇役です。どうもこの他人の人生においても、その人を差し置いてその人の人生なのに、そこで主役の座を締めようとする人もいるので人間関係が上手くいかなくなることがあるのです。人それぞれに脚本や設定が違うのですから、その人のドラマは成り立ちません。だから他人の人生でも主役になろうとすることはドラマの監督たる神様に袂を分かつことにもなり、自分の人生においても結局良い作品は仕上がりません。

 

自分の人生では自分が主役でも他人の人生ではその人が主役、自分は脇役に回ってこそ、その人のドラマの内容も充実してきます。そしてわたしたちもまたやがて神の国が来た日には、助演男優賞や助演女優賞を受賞するのです。