G.T.
アレルヤ!主はまことに復活されました!
残念ながら、全典礼暦年の頂点となる聖なる過越の三日間の典礼とミサにあずかることができず、例年のように復活祭の喜びを教会共同体として集まって共に祝うことができないまま、復活節がどこかで始まりました。確かに、私たち、否、教会全体が、今、これまで経験したことも想像したこともないような形で、典礼暦の日々と信仰生活を送っています。
しかし、それにしても、主は復活されました!
そして、復活された主キリストは、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・19)と私たちに語っておられます。
主イエスが十字架上で亡くなられたとき、三年間日々共に歩み、共に生活していた弟子たちの世界はひっくり返りました。彼らの主であり、師であり、友であり、希望であり、彼らの全てである主イエスが、無残にも鞭打たれ、打ちのめされ、十字架に釘付けにされたのを、彼らのうちの一人を除き、ほとんどが遠くから見ていたのではないでしょうか。服を剥ぎ取られ、棘の冠をつけられて、あざだらけで血まみれの主イエスでした。
恐怖に陥り、不安でいっぱいになった弟子たちは、主イエスのように苦しむことを恐れ、全てのドアに鍵をかけて家の中に引きこもりました。弟子たちは、これからどうすればいいのか分からず、時間が経つごとに誰かに見つかり、引きずり出され、殺されてしまうのではないかと恐れていました。彼らは、かつて暗闇と嵐の中で船に乗っていた時に感じていた恐怖よりも(マルコ4・37-40参照)、今の方がより強く、根深い恐怖を持っていたに違いありません。弟子たちの中には、少なくともあの時は主が自分たちと一緒にいて下さったし、主がいなかったとしても、残酷な苦しみを受けて十字架に釘付けにされるよりは、あの時に溺れてしまった方がマシだと思った人もいたのではないでしょうか。
そこに、復活された主イエス・キリストが、そのような絶望の中にいた弟子たちの前に現れ、その最初の言葉は「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・19)でした。それによって主イエスは、受難の前にすでに彼らに語られた平和のことを思い出させ、彼らが抱いていた確かでとても現実的な恐怖の中にあっても、主にあって平和であるべきだと彼らを安心させられたのです。
「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14・27)
新型コロナウイルス感染症のパンデミックによる深い苦しみと悲しみに包まれているこの時世に、目に見えない、追跡もできないウイルスと闘っている私たちの世界もまた、恐怖と不安に包まれています。私たちは様々なことを恐れるようになっています。ウイルスを恐れるのだけでなく、交わりを恐れ、人との接触や交流を恐れ、公の場でものに触れることを恐れ、未知のものを恐れ、この深刻な不安がいつまで続くか分からないことを恐れています。
復活された救い主・キリストは、弟子たちに言われていたのと同じように、恐怖を感じている私たちに、「あなたがたに平和があるように。心を騒がせるな。おびえるな」と言われています。それはこの世が与えられない、理解もできない平和です。主と共にいるための平和であり、主の内に生きるための平和です。
主イエスが与えてくださった平和の中に生きることで、私たちの心は不安や恐れに支配されてはいけません(※)。主は続けてこう言われます。
「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」(ヨハネ16・33)
最初の弟子たちと同じように、復活されたキリストは、ご自身の平和を受け取るように私たちに呼びかけておられます。この内なる平安があるところには,忍耐,優しさ,尊敬,尊厳,慈愛,そして静かな自信があり,私たちを待ち受ける困難に立ち向かうのを助けてくれます。
私たちの主イエス・キリストの平和をお受けするためには、主が私たちの内におられることを十分に意識し、心に留めておく必要があります。
今日、私たちは共同体として、例年のように復活節を祝うことはできませんが、主イエス・キリストの復活について最も重要なことは、単に外面的なお祝いではなく、私たちの内にキリストの新しい命が宿っているということです。すなわち、私たちはキリストの復活によって新しく生まれ変わり、復活されたキリストの命を生きるのです。
「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。」(ガラテヤ2・20)
主の平和がいつも私たちと共にありますように!
※[追記]
現在のパンデミックを止めるために私たちができることは何でもする必要がありますが、それには関係当局のあらゆる努力や取り組みに協力し、遵守することも含まれます。しかし、私たちは主の平和の内に生きているため、私たちの心は不安と恐怖に圧倒され、打ち負かされてはなりません。
「人々に、次のことを思い起こさせなさい。支配者や権力者に服し、これに従い、あらゆる善い行いをするよう心がけなさい。また、誰をもそしらず、争わず、寛容で、すべての人にどこまでも優しく接しなければなりません。」(テトス3・1-2)