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主よ、我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない。

G.T.

 

 8月28日、教会は聖アウグスチヌスの記念日を祝います。聖アウグスチヌス司教は、教会博士であり、4世紀乃至5世紀の最も重要な神学者・哲学者の一人です。聖アウグスチヌスを研究したことがある、あるいは少なくとも彼が残した数多くの名言のいくつかを聞いたことがある人も多いのではないかと思います。

 

 その中で、特によく知られているのは、「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」という名言ではないでしょうか。これは聖アウグスチヌスの最も有名な著作の一つである『告白』の第1巻の冒頭に出てきます。この不朽な名著では、聖アウグスチヌスが自身のキリストに向かう長い道のりとキリスト教への回心について論じています。

 「我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない。」

 誰もが落ち着きのない心を持っているからこそ、これは、誰にでも語りかけるようなシンプルでかつ直接的な形で私たちを主イエスキリストに導いてくれる、心強い言葉だと思います。

 

 この落ち着きのない心は、私たちがそれを認識しているかどうかにかかわらず、神様を知りたい、そして神様とより深い関係を持ちたいという願望なのです。どれも簡単なことではありませんが、神様はいつも私たちのためにおられます。神様が聖アウグスチヌススの主キリストへの回心を待っておられたのように、主は両手を広げられ、私たちが主の内に憩うのを待っておられます。

 もちろん、私たちがどのようにして主の内に安らぐことができるのかを問うのは自然なことですが、聖アウグスチヌスは『告白』の中で私たちに教えてくれていると思います。彼は次のように語ります。

 「『人間の内にあることは、その人の内にある人間の霊以外には、誰も知らない』としても、その人間の内にある霊ですら知らない何かが、人間にはあるのです。しかし、主よ、あなたがご自分のお造りになった人間の内にあるすべてのことを知っておられます。・・・それでは、私に自分について知っていることを告白させてください。そして、知らないことも告白させてください。じっさい、私が自分について知っていることも、あなたが私を照らされるから知るのであり、私が知らないことは、私の闇があなたの御顔の前で明るい真昼のようになるまで、無知のままです。」(第10巻第5章)。(*一コリント2・11の引用)

 聖アウグスチヌスは、私たちが従うべき信仰の重要なモデルを与えてくれていると思います。それは深い個人的内省のモデルであり、そして、どのように内省すべきか、どうして内省すべきなのかを私たちに教えてくれるモデルです。なぜなら、私たちは内省の内に神様を見つけ、内省を通して憩いを見つけるからです。

 

 しかし、聖アウグスチヌスは、内省がどのように機能するかについても明確です。 「私が自分について知っていることも、あなたが私を照らされるから知るのである」と彼は言います。内省は孤独なことではありません。私たちは神様と共に、内省しなければならないのです。内省は祈りなのです。

 私たちは、祈りは私たちの日常生活の不可欠なものであると、しばしば言い聞かされますが、祈りは必ずしも様式化される必要はなく、常に祈りのカードから暗唱される必要もありません。もちろん、この種の祈りは素晴らしいものであり、私たちの信仰生活を方向づけるのにとても役に立つと思いますが、最も美しい祈りのいくつかは、私たちが神様と共に内省し、神様に心を開き、私たちの心の中で主に語りかけ、主に耳を傾けるときだと思います。

 聖アウグスチヌスは、私たちにとって心強い模範だと思います。彼は聖なる人でしたが、多くの弱さを持った人間でした。彼は生活と信仰の中で葛藤に直面しながら、彼の心は主に向かう長い道のりの中で落ち着きがありませんでした。しかし、聖アウグスチヌスの励みになる信仰のお手本を通し、彼の人生を通し、神様との個人的な内省を通して、主の内に憩うことを見つける方法を私たちに示してくれています。

 聖アウグスチヌス、われらのために祈り給え。