G.T.
先日の夕食にワインが添えられたからか、主イエスが最初のしるしを行われた「カナでの婚礼」(ヨハネ2・1-11参照)で、聖母マリアが語られた言葉を思い起こされました。
「(イエスの)母は召し使いたちに、『この方が言いつけるとおりにしてください』と言った。」(ヨハネ2・5)。
これは、マリア様と主イエスが出席された婚礼で、祝宴が終わる前にワインがなくなってしまったときのエピソードですが、婚礼の祝宴が数日間続く公の行事でもある1世紀のユダヤ文化では大きな問題です。もし誰かがワインのおかわりを頼んでもワインがなかったら、新郎新婦とご家族は大恥をかき、社会的評判も損なわれるところだったでしょう。
このことを知ったマリア様は直ぐに主イエスに告げ、それから祝宴の召し使いたちに、「この方が言いつけるとおりにしてください」と言われました。つまり、マリア様が召し使いたちに、彼らは主イエスの言われることを忠実に実行する限り、主イエスは問題を解決してくださると、言っておられたのです。
これが、聖書に記されている聖母マリアの語られた最後の言葉です。御母が、主イエスが最初のしるしを行われる直前、また、3年間の公生活の始まりに、語られた言葉です。それは単なる祝宴の召し使いたちへのメッセージではなく、御母マリアから、主イエス・キリストに従うキリスト者である私たち全員への、大切な勧告でもあると思います。
これは、御母マリアが生涯生きておられた、キリスト者としての生き方であり、そしてご自身のご経験に基づいた、私たち子供たちへの愛情のこもった励ましの言葉なのです。ちなみに、その言葉が語られる前に、御母が「怖がらないで」と言っておられるのも聞こえるような気がします。
このエピソードに登場した召し使いたちは、主イエスが何をしようとされるのかは、全く理解していなかったにもかかわらず、主イエスの言われたことを忠実に実行しました。 主イエスは,ユダヤ人が清めに用いる六つの大きな石の水がめに水を入れ,それを宴会の世話役のところに持って行くようにと、指示されました。
この部分を読むたびに、召し使いたちは主イエスの言葉にどのように反応していたかをいつも想像しています。
「え?私たちに何をしろと言うのですか」と、彼らは主イエスが狂っているとさえ思っていたに違いないと思います。なぜなら、それまで、主イエスはまだ何の奇跡も起こされていなかったため、召し使いたちは主の奇跡的な力に気付くわけがなかったからです。おそらく彼らには、主イエスが、ただ水を客に出してワインのふりをしなさいと言っているように聞こえたのではないでしょうか。彼らには、馬鹿げていると思っていたに違いないと思います。
それにもかかわらず、召し使いたちが主の言われた通りにしました。聖母マリアがそうするようにと勧められたように、彼らはただ信じて主に従いました。
主イエスは言われます。
「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(ルカ11・28)。
「天におられる私の父の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(マタイ12・50)。
「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14・21、復活節第6主日福音書参照)
神様は、私たちの生活の中で、何をなさっておられるのか、私たちをどこへ連れて行ってくださるのか、私たちにはいつも理解し、知っているわけではありませんが、とにかく、私たちは主を信頼すべきです。主イエスは召し使いたちに,なぜ石の水がめに水を入れるのかを理解してもらうように求められたり,納得してもらうように求められたりはされませんでした。主は,彼らが主にあげることができるのは、従順以外に何もないことを知っておられ,それを受け入れられたのです。
このエピソードの最後には、主イエスが召し使いたちの従順に報いられ、彼らが想像もできなかったことを行われました。主は水をワインに変えられました。最後には、主イエスのご計画が明らかになり、召使いたちは、主イエスがほんの少し前まではとても馬鹿げているように見えたことをするように命じられた理由を、理解したのではないかと思います。
主イエスには、召使いたちのためのご計画があありました。石の水がめに水を入れることは、そのときは馬鹿げたことに思えたのかもしれませんが、最終的にはすべてうまくいきました。しかも、彼らの想像していた以上にずっとうまくいきました。なぜなら、彼らの上長がそのワインを試飲したとき、それまでに出されていたものよりも、ずっと美味しかったからです。(ヨハネ2・10)。
「この方が言いつけるとおりにしてください。」
御母マリアが私たちに語たられる言葉が私たちにとって心強い励ましとなり、私たちが主イエスに従い、すべてのことにためらうことなく、主を信頼するようになることを、お祈りします。