G.T.
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔の光であなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平和を賜るように。(民数記6章24節~26節)
教会は、主の降誕後8日目にあたる1月1日(「神の母聖マリア」の祭日)、年の最初のミサの聖書朗読を、イスラエルに伝わる民数記6章の祝福の御言葉で始めます。神様が私たちに教えてくださったこの御祝福は、私たち家族の間でお互いに送る誕生日のお祝いメッセージにしばしば引用されています。
また、私たちは英語の「Happy Birthday」「Happy New Year」「Merry Christmas」ではなく、「Blessed Birthday」「Blessed New Year」「Blessed Christmas」と言って、「主に祝福されますように」という願いを込めて祝福を交わしています。いつから、誰から始めたのかはよく覚えていませんが、気が付いたら家族全員が長年そうしています。
よく考えてみれば、誰かのために、主の祝福よりも良い願いがあるでしょうか。私たちは、誰かの一日や一年のために、主の愛と慈しみを感じることと、主の恵みと平安に満たされること以上に、良いことを願うことができるでしょうか。これらが私たち一人ひとりの幸せの根本的な要素ではないかと思います。
私たちはこの世においては、苦しみや痛みや悲しみをもたらす様々な困難に常に直面しています。私たちの幸せが神様に依存していなければ、私たちの心に不幸を生み出すことになるでしょう。たとえ世俗的な欲望で測る「幸せ」をすべて達成したとしても、主イエス・キリストを通して神様との関係を持つことができなかったとすれば、本当の幸せにはなれないでしょう。
『カトリック教会のカテキズム』の第1章(27項)はこのことを思い起こさせてくれます―「神へのあこがれは人間の心に刻まれています。人間は神によって、神に向けて造られているからです。神はたえず人間をご自分に引き寄せておられます。人間はただ神のうちにだけ、求めてやまない真理と幸福を見いだします」。
「主よ、あなたが我々をお造りになりました。ゆえに我々の心は、あなたの内に憩うまで休まらない」と、聖アウグスチヌスが言っています。
長い、厳しい2020年を経て、私たちはここで新しい年の始まりに立っています。まだまだ続く今日の厳しいご時世の中で、2021年には何が起こるのでしょうか。次の12ヵ月が何をもたらすかを知ることはできませんが、一つだけ確かなことがあると思います。
それは、私たちに「新たに始める機会」が与えられていることです。
すべての始まりは、前へ進む原動力となります。夜明けのたびに、世界はまだここにあることが確かめられます。終わりはまだ来ておらず、神様の慈しみと憐れみは毎朝、毎年新しいものです。
「主の慈しみは絶えることがない。/その憐れみは尽きることがない。それは朝ごとに新しい。/あなたの真実は尽きることがない」(哀歌3章22節~23節)。
信仰は、私たちを成長させ続け、変化させ続け、新しい年を迎え、新たに始める機会に感謝の祈りをもって、毎日の夜明けを迎えさせてくれています。私たちは、新たな始まりの希望に生きるために、この日が与えられているのです。
どんな年であっても、最も深い真実は「神様の御旨により、神様がそれを創造され、その中のすべての被造物を見守っておられる」ということだと思います。世俗的な確実性が崩壊するかもしれませんが、永遠の命と神様の愛は、決して終わることがありません。
そのため、新しい年を迎えた私たちは、神様への愛とお互いへの愛を深めることができるよう、祈りましょう。新たな一年を通して、主の光が私たちを導かれ、不確実性と悲しみのすべての暗闇を払拭されますように。主の御顔の光が私たちを照らされ、私たちは周りのすべての人々への主の愛の反映となり、人々に主の慈しみと憐れみを感じさせることができますように。
始まったばかりの年を通し、主の絶え間ない祝福、恵みと平和を賜りますよう、祈りましょう。