G.T.
私はほとんど毎朝、朝食時にコーヒーを飲みます。早朝に淹れる挽きたてコーヒーの濃厚で深い香りが、特に大好きです。この香りは、妻や両親、兄弟や親しい友人たちとコーヒーをゆっくり飲みながら、共に過ごしていたひと時を、しばしば思い出させてくれます。昔、小さなコーヒー焙煎屋の近くに住んでいた頃の子供時代のことさえ、思い浮かばせてくれます。
ただ単に香りだけでなく、それに伴う心地よい充足感、ノスタルジア(郷愁)や思い出が好きです。この特定の香りが私をどのようにかき立てるのかは説明できないのですが、そこにはきっと奥が深いだろうと思います。
私たちの信心深さが香りのように神様に向かって昇っていくとき、おそらく、神様も同じように感じられるのかもしれないと思います。神様はより深遠な喜びで、その香りをお受入れくださるのではないでしょうか。
神様はイスラエルの祭司たちに、絶えずかぐわしい香を焚き続けるように命じられましたが(出エジプト記30章7節~8節参照)、神様を喜ばせたのは、単なる香りそのものではなく、その香りが表す神様の民の絶え間ない祈りのことだったのです。祈りは神様にとって、「金の鉢」にお集めくださるほど、とても心地よく貴重なものであると、ヨハネの黙示録が教えてくれます。
「巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老はおのおの、竪琴と、香で満たされた金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである」(5章8節)。
「また、もう一人の天使が来て、金の香炉を手に持って祭壇のそばに立ち、たくさんの香を受け取った。すべての聖なる者たちの祈りに添えて、玉座の前にある金の祭壇の上に献げるためである。香の煙は、聖なる者たちの祈りと共に天使の手から神の前に立ち上った」(8章3節~4節)。
ダビデもこのように詠っています―「私の祈りがあなたの前に/香として供えられますように」(詩編141編2節)。
確かに、私たちの祈りは、天におられる御父が喜ばれる、金の鉢を満たすかぐわしい香りとなるのです。
私たちが祈りを通じて御父をお求めするとき、御父がそれほど喜ばれる一つの大きな理由があると思います。それは、御父が単純に私たちと一緒におられることがお好きだからということだと思います。
かつて参加した黙想会の中の告解で、神父様が私に「神様はあなたと一緒におられるのが大好きで、毎日あなたと共に過ごす時間を望まれているのだ」と言ってくれました。それを聞いた私はとても感動したのを覚えています。
言い換えれば、私たちが主に向かってお祈りするとき、主は喜んで私たちと共におられ、一緒におられることを楽しんでおられるということです。全能の神様が私たちと一緒におられるのが好きであることよりも大きな祈る動機があるのでしょうか。
「主は、人が友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」と聖書に記されています(出エジプト記33章11節)。確かに、主はモーセと一緒におられるのが好きでした。主もアブラハムと一緒におられるのが好きで、彼をも友と呼ばれました(イザヤ41章8節、ヤコブの手紙2章23節参照)。
そして、主イエスが「私はあなたがたを友と呼んだ」(ヨハネによる福音書15章15節参照)と弟子たちに言われました。
友情は、相手と時間を過ごすことで育まれます。聖パウロが教えてくれるように、絶えず祈りましょう(テサロニケの信徒への手紙①5章17節)。神様が望まれているように、日々主と一緒に過ごす時間を捧げましょう。
「愛の内に歩みなさい。キリストも私たちを愛して、ご自分を宥めの香りの供え物、また、いけにえとして、私たちのために神に献げてくださったのです」(エフェソの信徒への手紙5章2節)。
主イエス・キリストにあって、主イエスの御名によって、私たちの祈りが天におられる御父を喜ばせる香りの供え物となりますように。