G.T.
久しぶりに聞いたクロウチのバラード
1973年にアメリカビルボード(Billboard~米国最も権威のある音楽チャート)1位に輝いたバラードがありました。その曲は次の歌詞で始まります。
If I could save time in a bottle もし僕が瓶の中に時間を貯めておけるなら
The first thing that I’d like to do 僕は真っ先にやりたいことは
Is to save everyday till eternity passes away 毎日を永遠が過ぎ去るまで貯めておくさ
Just to spend them with you. ただそれらを君と一緒に過ごすために。(拙訳)
美しいアコースティック・ギターのアルペジオをバックにそう歌っていたのは、アメリカのフォーク系シンガーソングライターのジム・クロウチ(Jim Croce)でした。
この「Time In A Bottle(タイム・イン・ア・ボトル)」という曲(ネットで検索すればすぐに視聴できる)は、もともとジム・クロウチが最愛の妻の妊娠を告げられた時に書き上げたものでしたが、3年後に不慮の飛行機事故で彼が他界後、この曲が全米No.1ヒット・シングルとなったと言われています。
この曲を初めて聞いたのは1981年、ギターを始めたばかりの中学2年生の頃でしたが、年を重ねるごとにすっかり忘れていたのですが、先週、偶然にもネットで久しぶりに耳にしました。
ジム・クロウチの歌詞を振り返ってみると、妻への深い愛情が明白に表現されていることは言うまでもありませんが、同時に、「カイロス」という時間の概念も微妙に表されているように思います。
古代ギリシア語の「時」を表す二つの言葉
古代ギリシア語で「時」を表す言葉は「クロノス」(Chronos)と「カイロス」(Kairos)の2つ。前者は時計やカレンダーで計れる「量的な時間」(1時間は60分、1日は24時間、1ヵ月は30日間など)です。後者は計ることのできない、かけがえのない「質的な時」を指すほかに、「機が熟す時」「適切な時」「完璧なタイミング」といった意味合いがあります。また、カイロスには精神的(霊的)な感覚が伴います。
原語のギリシア語で書かれた新約聖書では、「時」について語られている多くの箇所に、カイロスが用いられています―「時(カイロス)は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ福音書1章15節)、「キリストは、私たちがまだ弱かった頃、定められた時(カイロス)に、不敬虔な者のために死んでくださいました」(ローマの信徒への手紙5章6節)。
また、原語のヘブライ語で書かれた旧約聖書にある有名な「コヘレトの言葉」の箇所―「天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある。/生まれるに時があり、死ぬに時がある。/植えるに時があり、抜くに時がある…」(3章1節~11節参照)の「時」も、七十人訳聖書(現存する最古のギリシア語旧約聖書の翻訳)では「カイロス」と訳され、神様が定められた「時」の深い意義が示されています。
「カイロス」が聖書に多く出てくるのは…
しかし、「時」という言葉が直接用いられなくても、聖書にはカイロスを表す場面も多く記されているようです。もっとも印象に残るエピソードの一つは、主イエスがご復活された後、エマオに向かう弟子たちに出現された時です(ルカ福音書24章13節~35節参照)。
ずっと主イエスと共に道を歩んできたにもかかわらず、主イエスだとは分からなかった弟子たちが、主の祝福された、裂かれたパンを受け取って初めて、目の前におられるのが主だ、と分かりました。「二人は互いに言った。『道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか』」(同24章32節)。これは弟子たちのカイロスの瞬間だったではないかと思います。
先週の主日のミサの途中で、ある種の深い感動を覚えました。その感覚を具体的に表現できないのですが、おそらくこの弟子たちが感じたものと似ているような気がします。そして、主イエスの御聖体を拝領した時、その不思議な感動がさらに深く感じました。神なる主イエスが実際にこの罪深い私の心にお入りになり、いつでもどこでも、常に私と共におられることに対しての深い感動が湧いてきたのです。
カイロスとは、過去、現在、未来(クロノス)にとらわれない神様の次元のものだと思います。神様が与えられた「時」であり、神様が導いておられる「時」です。カイロスの質的な時は、神様と出会う時であり、神様と共にいる時であり、神様ご自身が人間を愛され、人間を救われる「神の時」のように思います。
私たちは「クロノス」にとらわれていないか
私たちの多くは、日々の予定通りに様々なことを次から次へと、こなしながら、クロノスの概念ばかりに従って日々を過ごしがちですが、聖パウロは、このように教えてくれています。
「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤの信徒への手紙2章20a節)、「知恵のない者ではなく、知恵のある者として、どのように歩んでいるか、よく注意しなさい。時(カイロス)をよく用いなさい。今は悪い時代だからです」(エフェソの信徒への手紙5章15節~16節)、「時(カイロス)をよく用い、外部の人に対して知恵をもって振る舞いなさい」(コロサイの信徒への手紙4章5節)。
主は日々いつでもどこでも、常に私たちと共におられる―私たちは、常にこの事実を意識しながら、常にクロノスの世界でカイロスを求め、カイロスを生きることに努めるように、求められているのではないでしょうか。