G.T.
新約聖書(「四福音書」「使徒言行録」「ペトロの手紙」)を通して、使徒聖ペトロについてのことや彼の言行、教えを読んだり、思いを巡らせたりしていくうちに、多くのことを教わりながら、聖ペトロに親近感を覚えるようになり、色々な意味で共感できるところもあるように感じています。
常に素朴で正直な心で、主に従う
聖ペトロは極々平凡な人間であり、初めて主イエスに出会った時から終始、主の御前では素直で、率直な気持ちや思いを隠すことなく―「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」(ルカ福音書5章8節)―ありのままの自分の弱みをもって、素朴で正直な心をもって主に従っています。
僕としては、福音書に記されているペトロの一言一句を「聴き」、それぞれの場面を「観る」ようにすることにつれて、ペトロにとって主イエスがどれほど大切な存在であるか、ペトロはどれほど主を慕っているか、どれほど主から離れずにずっと一緒にいたいと思っているか、どれほど主イエス・キリストを心から愛しているかが伝わってきます。
たとえ主イエスの御教えをまだ十分に理解していなくても、たとえ自分の信仰がまだ十分でなくても、たとえ周りの様々な事情や誘惑、自身の弱さなどによってつまずいたり転んだりしていても、あきらめず主の助けと力を求め続け、心から悔い改め、迷うことなく主を信じ、主に従い続けることを、ペトロが身をもって範を示し、教えてくれているような気がします―「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書16章16節)「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉をもっておられるのは、あなたです。」(ヨハネ福音書6・68~69節)。
「否認」なのか「裏切り」なのか
ある人たちにとって、ペトロが「主イエスを知らない」と三度言ったことを、「ペトロの裏切り」と見なしているようです。また、主を(実際に)裏切ったユダのほか、「ペトロも主イエスを裏切ったのだ」とし、この「二人の裏切り行為」が比較されることも少なくないようです。
どうしてペトロにそのようなレッテルを貼っているのか、僕には理解し難く、悲しく思っています。
「人を裏切る」ことの意味や定義を議論するつもりはありませんが、そのような行為には計画的な利己動機や意図が込められているのではないでしょうか。私たちは、当惑したり混乱したりする瞬間に、誰かや何かを簡単に否定してしまうことがあるのではないかと思います。誰かを裏切ることは、前もって考えておく必要があります。人を裏切ることは、より冷血なことではないかと思います。
それをさておき、そもそも四福音書には、主イエス・キリストを裏切った人物はただ一人であり、それはイスカリオテのユダのほかならないことが明記されています。何よりも、主御自身がはっきりと言っておられるからです―「よく言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」(マタイ福音書26章21節、ヨハネ福音書13章21節)「見よ、私を裏切る者が近づいて来た」(マタイ福音書26章46節、マルコ福音書14章42節)「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」(ルカ福音書22章47節)。
「ペトロは『主を知らない』と三度言った」と「ユダは主を裏切った」という福音書に書かれている二つの事実は、紛れもなく明白に、異なっており、同列に見なすのは、あまりにも軽率な思い込みではないか、と僕は思います。
「臆病者」なのか
ペトロは「主を知らない」と言ったことで、しばしば「臆病者」のレッテルも貼られてきたようです―「結局、ペトロは臆病で、肝心な時に自分自身の安全を守るために主イエスを否認した」というような指摘も、聞いたことがあります。
しかし、私たちは果たしてペトロが「知らない」と言った動機や真意を知っているでしょうか。大祭司の邸宅の中庭で主との関係を否定したペトロが、もし怯えていたとすれば、その数時間前に剣や棒を持った圧倒的な群衆に向かって、たった一人で剣を抜いて立ち向かおうとしたペトロの勇気はどこから出てきたのでしょうか。
ペトロがそれより前に、大胆に救い主にこう述べました。「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ福音書26章33節)。これに対して、救い主は次のように言われました。「よく言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」(同34節)。
そしてペトロが主を守ろうとして実際に剣を振り上げたのは、この預言が述べられた後のことです。この瞬間、ペトロは覚悟を持って、何とかして愛する主を守ろうとしたのではないでしょうか。
大勢の武装した群衆を前にして、たとえなんと無謀な真似であるかに見えても、これが常に正直な気持ちを隠さないペトロの「有言実行」な瞬間とも見えるのではないでしょうか。これは「臆病者」がするような振る舞いでしょうか。
この悲しむべき出来事は、軽々しくペトロにレッテルを貼ったり批判したりすることよりも、私たちに示してくれる、もっと奥深い意義のあることを熟考すべきではないかと思います。
聖ペトロの否認
ペトロは主イエス・キリストが神の御子であられることを否認したことは一度もありませんでした。ペトロが否認したのは、キリストとの関わりや知り合いであるかどうか、ということであり、それは全く別の問題であると思います。ペトロが否定したのは、心の中に混乱があったからでしょうか。それとも、主の救いの計画の全体像を十分に理解していなかったためでしょうか(それでも、これはそれほど不思議なことではないでしょう。なぜなら二千年もの間、確実な証拠をもって主の復活のことが宣べ伝えられていながら、今日もなお大勢の人々がその事実を理解できずにいるからです)。何か他の理由があったでしょうか。
ペトロは、大祭司の家に連れ行かれた救い主の後を追って、その中庭にいた人々の中に混じって静観していました。この時のペトロは「何をどうすればよいか」と頭の中で悩んでいたのかもしれませんが、この時のペトロに、ほかに何ができたでしょうか。ペトロは、救い主が群衆の間をすり抜けて、何度も危機を脱して来られたことを知っていました。今回もそうなさるだろうか…
ペトロがフィリポ・カイサリア地方で強い証しをした時、主イエスから、御自分がメシアであることを誰にも話さないように命じられました(マタイ福音書16章20節)。また、三人の使徒が主の変容を目の当たりにした山を下っている時も、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」(同17章9節)と命じられました。ペトロは、「今がキリストについて語る時ではない」と感じたのでしょうか。
主イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを弟子たちに打ち明けられました(同16章21節参照)。ペトロはそのような不吉なことをお考えにならないように止めようとしましたが、主から激しい叱責を受けました。その瞬間に、ペトロはそのような悲惨な出来事が起こるのは、主の御心であると悟ったのかもしれません。
ペトロは、ゲツセマネの園から静に出て行かれた救い主を見ました。自分自身は敵に向かって剣を振りかざしましたが、剣を収めるように命じられました。必要ならば、万軍の天使を呼ぶこともできると、主は言われました。ペトロには、これ以上何ができたでしょうか。ほかにどのような方法で、忠誠と勇気を示すことができたでしょうか。目の前で一人の使徒が接吻をもって、愛する主を裏切ったにもかかわらず、主はその使徒をおとがめになりませんでした。
悲しみに暮れたペトロは、主をなじる群衆について行きました。しかし、これは決してペトロが主イエスを見捨てたというわけではなく、最後まで主に従おうとしたのではないでしょうか。
ペトロは、群衆のごうごうたる非難の声を耳にし、主に対する屈辱的な行為を目にし、裁判の不公正を感じ、偽りの証人の偽証を聞きました。聖なる御方の顔に汚いつばを吐きかける群衆を見ました。人々は主を打ち、殴り、侮辱しました。しかし主はまったく抵抗せず、天の軍勢を呼び求めることもなく、神の憐れみも求められませんでした。そのような主を見たペトロは何を考えればよいでしょうか。
聖ペトロが流した涙
このような状況の下で、中庭にいた人たちに指摘されたペトロは、どのように主を守ることができたでしょうか。また、そうすることが主イエスの御心に適うことでしょうか。救い主はすでにその同じ夜に、争うことのないようペトロに禁じておられましたが、今なら争ってよいのでしょうか。主イエスの弟子であることを認めていたら、どうなっていたでしょうか。
主イエスを知らないと三度言ったペトロは、事の重大さを熟慮したり、発言を翻したりするような余裕なく、鶏の鳴き声が聞こえてきました。そこで初めて主の預言を思い出し、後悔の念に駆られました。
夜明けを告げる鶏の声を耳にしたペトロは、自分が主を否定した事実だけでなく、十字架上の死も含めて、主が言われたことがすべて成就するであろうことを、思い起こしたはずです。そしてペトロは外に出て、激しく泣きました。ペトロが流した涙は、まさかの自分が口にしてしまった、とんでもないことを悔いるためだけのものであったのか、それとも、愛する主と師を失うことを実感した悲しみの涙も混じっていたのでしょうか。
あの恐ろしい夜のペトロの心の動きについて知ったかぶりするつもりはありませんし、彼がどうしてあのような行動をとったか説明できる立場にもありません。しかし、復活された救い主はその後、ペトロを赦され、御自身が建てられた教会のリーダーの地位に引き上げられ、御国の鍵を授け、結び解く権能を与えられていること、僕は知っています。
「聖ペトロの否認」は悲しい出来事ではありますが、主イエスに従うキリスト者である私たち一人ひとりが信仰を育む上で、奥深い意義があると信じています。