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聖母マリアの待降節(アドヴェント)の足跡をたどる

G.T.

 

 毎年、待降節(アドヴェント)第4主日に、教会は福音朗読の中で聖母マリアに焦点を当てるようにしています―ルカ福音書1章26-38節(B年、本典礼年度)、同1章39-45節(C年)、マタイ福音書1章18-24節(A年、聖ヨセフも登場)。教会はこのようにするのは、単に聖母マリアが主イエスの誕生と生涯において明らかに忘れられない役割を果たしたからではなく、主の降誕祭(クリスマス)が近づくにつれてマリア様が私たちの待降節をどのように生きるべきかの模範であるからだ、と思います。待降節は、主イエスの降誕を祝うためだけでなく、主イエスの再臨を待ち望み、準備する季節です。この期待に満ちた希望の期間の中心には、主イエスの母マリアがおられます。そして、彼女の信仰、信頼、従順の旅路は、待降節が私たち一人一人に呼びかける霊的な準備を映し出しながら、導く助けとなると思います。

 

聖母マリアの信仰を具現化すること

 

 マリア様はある意味で待降節の擬人化であり、待降節の本質を具現化していると思います。彼女の揺るぎない信仰と神様の御心に対する開かれた姿勢は、この典礼季節に私たちが行うべきことの模範となります。御父なる神様は、マリアが御子の母としてふさわしい者となるよう、その生涯の最初の瞬間(無原罪の御宿り)から備えておられたのです。マリアはイスラエルの忠実な娘たちと同じように、幼少期を通じてメシアの来臨を祈り続けていました。

 

 彼女はまだ若い少女の頃、ご自分がその祈りに対する神様の答えの一部であることを発見しましたが、それはどのヘブライ人の少女の祈りよりもはるかに超えていたものでしたーメシアは彼女の息子になるだけでなく、その息子もまた、神の子でもあるというのです!

 

 「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1:38)というマリア様の応答は、いつも私の心に響きます。神様のご計画をそのような信仰と謙虚さをもって喜んで受け入れようとする彼女の姿勢は、私たちの人生において神様の呼びかけにどのように応えるべきかを考えるよう促すものだと思います。同様に、待降節は私たちに、神様の御心を受け入れるマリア様に倣い、この季節は外的な準備だけではなく、私たちの心を準備することを思い出させてくれます。

 

信仰深い待ち望みの旅路

 

 お告げから主イエスの誕生までのマリア様の旅路は、信仰深く待ち望むことの深淵な例だと思います。待降節を通じて、私たちは神様の約束に対するマリア様の忍耐強い信頼を思い出させられます。この待ち望む期間は受動的なものではなく、むしろ私たちの信仰との積極的な関わりを伴うものです。

 

 マリア様が受肉の神秘を思い巡らしたように(「マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた」、ルカ福音書2章19節)、私たちもまた、観想的に主を待ち望むことの大切さを思い起こし、その受肉の奥深い神秘を思い巡らすように招かれています。

 

謙遜と信頼を受け入れること

 

 待降節はまた、マリア様が体現されたように、謙遜と信頼の美徳を受け入れる時期でもあると思います。彼女の生涯は深い謙遜を反映しており、誇張や抵抗をすることなく神様の御計画における自分の役割を受け入れました。不確実性や潜在的な困難に直面しても、神様の御約束を信じました。「マリアの賛歌」(ルカ福音1章46-55節)に見られるように、マリア様が主を崇め、神様の御前で自分の小さい存在を認める彼女の模範は、私たちにとって力強いものであり、私たちは神様の恵みと導きに依存していることを認識し、謙遜と神への信頼を受け入れるよう求められているのだと思います。

 

マリア様の「はい」と私たちの応答

 

 神様の呼びかけに対するマリア様の「はい、お言葉どおりになりますように」という応答は、待降節の礎だと思います。それは、神様のご計画の一部となり、予期せぬことや奇跡的なことを受け入れようとする意志を表しています。マリア様の模範に触発されながら、私たちは毎年の待降節に、神様に対する自分自身の「はい」ということの大切さを思い出させられます。これは、神様が私たちの生活で働きかけてくださるかもしれない予期せぬことに対して、心を開き、自分の意志を神様の御心とよりよく一致させるにはどうすれば良いか、を熟考し、神様の御心に従うことで生じる課題や喜びを受け入れる準備をすることを意味することだ、と思います。

 

霊的成長の時期

 

 待降節は、マリア様のご経験を通じて、霊的な成長と刷新の力強い時期となります。信仰、信頼、従順というマリア様の美徳を振り返り、それらを自分の生活に取り入れる時期だと思います。主イエス・キリストのご降誕を祝う準備をすると同時に、私たちはキリストを新たに受け入れる心の準備も整えます。

 

 マリア様の旅路は、待降節がただ待つだけの期間ではなく、私たち自身の信仰の旅路を変容させ、深化させる時期であることを常に思い出させてくれるのだと思います。