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四旬節の旅を思い巡らす

G.T.

 

  温かいカトリックの家庭に生まれ育ち、幼児洗礼の聖水によって印された私の信仰の旅は、無邪気な幼い頃から始まりました。その出発点から、四旬節は、この旅路における繰り返す通過点であり続けました。初期の頃、それは畏敬の念と伝統的な慣習の厳かさが混ざり合った道程のようでした。大切にしていたご馳走や気ままな娯楽を(一時的に)放棄したり、祈りや「十字架の道行き」の粛々とした信心業を耐えたりして、まるで意志と信仰の試練かのように感じられました。

 

四旬節は一人旅ではない

 

 年月が経つにつれて信仰の旅を歩んでいくうちに、四旬節の輪郭は次第に変化し、継続的な霊的成長と刷新、そして神様とのより深い出会いの契機に富んだ風景が徐々に明かされてきます。この季節は、単なる「自制」や「我慢」の時ではなくなり、内省、清め、神様とのより深い交わりに捧げられる大切な期間として現れてきます。それは、心の荒れ野に踏み込み、自分の弱さと向き合い、「涸れた谷に鹿が水を求めるように」(詩編42編2節)、悔い改めの癒しの水を受け入れるように、との呼びかけであり、ダビデが切に祈り求めたように、自分の存在そのものを再形成する回心へと促しています―「神よ、私のために清い心を造り/私の内に新しく確かな霊を授けてください」(詩編51編12節)。

 

 四旬節は一人旅ではなく、新たな永遠の命へ導いてくださる主イエスとの旅です。この40日間、主に従って心の荒れ野に入り、主イエスが御父への完全なる信頼を倣い、自分の力ではなく「神の口から出る一つ一つの言葉」(マタイ福音書4章4節)に寄りかかるように招かれます。そして、主イエスが私たちのために、御自分を貧しくされ、へりくだってくださったのと同じように、私たちも栄光の主の御前に自分の魂をさらけ出します。

 

人間共同体の中の私たちの立ち位置の再発見

 

 けれども、四旬節の旅は、主に従って荒れ野に向かう主と一体化するだけでなく、人間共同体の中の私たちの立ち位置を再発見することでもあります。この季節に教会が特に勧める「祈り」「断食」「施し」の三つの行為は、愛の三位一体のようになり、神様と私たち信仰の本質に近付けさせてくれる意義深い信心業になります。これらを通して、私たちは恵みの変容的な力にあずかり、神様から遠ざけている重ね着を脱ぎ捨て、神様の愛の光を身にまとうよう招かれています。

 

 かつての子供の頃、忍耐力を試すような儀式のように思っていた「十字架の道行き」の信心業は、主イエス・キリストの足跡と苦しみをたどる深い黙想へと進化してきました。各留(場面)は、神様の深淵な愛の側面と人間の苦しみを映し出す鏡となり、キリストの苦しみ、ひいては今日の世界の苦しみとの深い交わりを招いているように思えます。

 

断食と施し―祈りの二つの翼

 

私たちが断食するのは、主イエスの体験を分かち合い、自分の意志を強め、物質的な糧だけに頼らず神様への信頼を深めるための手段だけではありません。私たちが断食をするのも、他の人々に与えるためです。聖アウグスチヌスが教えるように、「断食によって自分から取り去るものは、施しに加えなさい」(“Sermons on the Liturgical Seasons: Fathers of the Church”/教会の教父たちの典礼季節に関する説教集(拙訳))。今日、私たちが断食のために使わなかった食費を「愛の献金」に入れることをよく勧められています。

 

 また、「断食と施しは祈りの二つの翼です。それらは神に達するための飛翔を容易にしてくれます」(『説教206――四旬節について』:Sermones 206, 3, PL 38, 1042)と聖アウグスチヌスが教え、イスラエルの民に対する主の問いかけを思い起こさせてくれます―「私が選ぶ断食とは/不正の束縛をほどき、軛の横木の縄を解いて/虐げられた人を自由の身にし/軛の横木をことごとく折ることではないのか。飢えた人にパンを分け与え/家がなく苦しむ人々を家に招くこと/裸の人を見れば服を着せ/自分の肉親を助けることではないのか」(イザヤ書58章6-7節)。

 

復活祭への旅

 

 四旬節が聖週間と復活祭に向かって進むにつれて、主イエス・キリストの受難、死、そして御復活の物語は、私たちに深い希望と新たな命の約束を与えてくれます。ラザロの復活は、この希望を力強く物語っています。「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。/生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない』」(ヨハネ福音書11章25-26節)。この言葉は、キリストの復活によって私たちに約束された永遠の命について思い巡らすよう私たちを招き、この賜物に相応しい生き方をするよう私たちを励ましています。

 

 四旬節は、祈り、断食、施しの呼びかけと共に、私たち個人的にも共同体的にも内省と回心のための神聖な時を与えてくれます。これは、自分の弱さと向き合い、赦しを求め、神との関係を深める旅です。四旬節を旅するとき、神様が与えてくださる変容的な恵みに心を開き、主イエス・キリストに従うより良いキリスト者となるよう、私たちを形作っていただけますように!