加藤 豊 神父
面白い映画を観た後、為になる本を読んだ後、そういう時は大概、誰かとその話をしたくなります。しかも話相手の側もまた「わたしも見た見た」となれば、共通の話題として話は尽きず、盛り上がるでしょう。
こうした共感というものは、楽しい体験に限ったことではありません。嫌な思いをしたときなども、「わたしもそういうことがあった」となれば、相手とそれを分かち合うことで、苦々しさも半減されるでしょう。
つまり相手のあることです。ついこの間まで「そうだそうだ」と共感できていた者同士でも、片方に心境の変化が突然(本人にとっては突然ではないかもしれませんが)起きた場合は、もう片方は「あれ?」と思うでしょう。
「あいつが嫌いだ」と口走る人、そしてその周囲には「俺もだ、お前の気持ちはよく解る」と共感する人、そうやって話題が絞られ、盛り上がります。決していいことではないが、悲しいかなそんな実情もあるわけで、これも一種の「共感」なのでしょうか。
ともあれ、その後にもし、言い出した側が突然(のように)「嫌いなのは今も変わらないが、悪口はよくないことだ」と言い始めてしまうと、それまで共感していた(寄り添うようにしていた)周囲の人は、やはり「あれ?」となるでしょう。しかも、最初から寄り添って調子を合わせていた人たちは、もはや「あれ?」では済まず、「なんなんだあいつ急に」となるでしょう。
人は心にいろいろな思いを抱きます。しかし、たとえ辛いことがあったとしても、いつまでもクヨクヨとはしていられません。従って、やがて蟠りは克服されますが、周囲の人たちにみずからそういう話題を提供した本人に付き合って(寄り添って)くれた人たちには、「あれっ」という受け取られ方をされるのは必至です。
「俺もよく(深く)考えて心の整理ができた。今はもう吹っ切れた」というその心境の変化が外から見えないままならば、彼を誤解する周囲には罪なしでありましょう。それに、この点で度が過ぎると、時間が経てばすぐに意見(気持ちも含めて)が変わる勝手な人だという評価も免れない。「なんだ、結局その場の感情だったわけだ」と。
「もう克服したから、その話題はよしてくれ」という意思表示、これなくしては相互理解に支障が生じるでしょうし、それにもっと困ったことには、「もう俺は克服した。お前はまだのようだね」と寄り添ってくれた相手を見下してしまうようなことまで起きます。つまり付き合った(寄り添った)側が、寄り添われた側から注意を受けるという、やり切れない状況が発生します。
達観は超克であり成長です。しかし、それは自己超克という自分と向き合う心の動きです。だから心境が変化しそうなときには、はじめから共感を求めてはなりません。共感を求めるなら、かつての自分と今の自分との心境の変化を相手に知ってもらう必要があります。
自分と向き合うことは「超克」、相手と分かち合うことが「共感」、なるべくならどちらも持ち合わせていたいものです。
これから教会は大きく変わらざるをえないのですが、その経緯やこの度の一連の出来事を今は胸に刻む時期です。他者への眼差しとしての「共感」はもとよりですが、そのためにも変化する理由をしっかり捉えて他者へと向かいたいのです。変わった訳を一人一人が事実に基づいて出来るだけ正確に認識しつつ、一人一人の「超克」を求められるでしょう。