加藤 豊 神父
数年前に生まれてはじめて入院を経験しました。2週間でした。本当に病院の食事なのかと思うようなメニューだったのが印象的でした。だってカツ丼が出て来たりするんですよ。
この記事では、口から食べる食事ではなくて、聖書の言葉を食べることを皆さんとご一緒することから、口から食べる食べ物の話が時々あるかもしれません。その味わい方は人それぞれなので、聖書学的に「その食べ方はどうなの?」とお叱りを受けそうなのですが、自分の体験と聖書の言葉が重なるとき、それは、聖書そのものがその人にとって、とても身近なものとなるため、ここでは、そんなエピソードを書いてみようと思ったわけです。
いうまでもなく、注解書や聖書の学問的な研究は大切です。わたしも普段なら、自分の教会で聖書講座を一クラス担当していますから、そこでも解説を解りやすくお伝えする以上、あまり不正確なことは避けたいとは思っていますが、まずは、読む人に身近に感じてもらうことが重要なのだろうと、いつも実感させられるのです。
恩師であった聖書学者、サレジオ会の今は亡き石川神父様は、よく、仰っていました。「わたしの聖書学なんて、イエズス会の神父様がたから見れば、とても非学問的に見えるでしょう」。
神父様がおっしゃりたいことはよく解りますが、ただ、それは、当時のわたしたち学生(優秀な学生ばかりではなく、わたしのような愚鈍な者がいたわけですから)たちに、出来るだけ解りやすく教えてくださるためだったのだと思います。
皆さんは、「あっ、この場面、この心境、ひょっとして聖書のあの箇所と同じなのかしら?」と思える瞬間って、ありますでしょうか。
この記事の前に書いた「山に向かって動けといえば・・・」に触れた文に続き、この後「手の萎えた人が手を伸ばす」福音箇所に関して、わたしなりの体験をお話しさせていただければと思います。