加藤 豊 神父
「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片方の手の萎えた人がいた。 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと手は元どおりになった」(マルコ3・1-5)。
立法に関する問答だし、「安息日」と「人の子」の関係にも触れなければならないのだろうけど、一般的には、ここでの奇跡が皆、気になっているのが本音ではないでしょうか?「そういうものではない」といいきってしまっては、「じゃあこれは嘘か」と、何も知らない人たちはそう思うか、逆に純粋すぎる人は「流石は神の子だなあ」と思うか、どちらかなのではないでしょうか。でもその真ん中もあるんです。
わたしが入院していたときです。夜になると聞きなれない何かとても不調和な感覚の音が毎晩聞こえて来ました。最初は何の音か解らなかった。それは看護士さんが、吸引機で患者さんの痰を除くときの音だと解ったのです。そしてその音のする反対側の廊下の突き当たりくらいの病室からは、ときどき叫び声が聞こえました。リハビリが始まったのだと、思いました。わたしもまた、リハビリのようなことはしていましたが、それはせいぜい、「あ、え、い、う、え、お、あ、お」と発音し、普通に喋れるようになるための発声で、リハビリテーション科の先生が着いていて何かをアドバイスされるといったものではなかったわけです。
しかし、手を伸ばすため、足を伸ばすため、必死になって医師と患者が集中するその熱意の音が、毎晩聞こえてきました。それは凄く必死な声で「うぎゃー」とか、「痛い痛い」とか、「ああーっ」という壮絶なもので、聞いていて「辛いだろうな」と思いながら、そのとき、ふと思い出されたのが、マルコ3・1₋5の箇所でした。
わたしたちは、福音書の奇跡物語を、無意識のうちに超常現象のように受け取ります。事実そういう箇所も福音書には沢山出てきます。神の業である自然現象、イエスの憐れみ深い行い、実はそれじたいがそもそも奇跡の前提であることをあっさりと忘れて。わたしもこの箇所は、イメージとしてサラッとしたものを感じていたのです。
しかし、必死に手を伸ばそうとする人を前に、必死の形相で「いいですか、いきますよ」といってリハビリ科医師が患者であるその人の手を取り、再び動くよう双方の努力が結晶し、やがて手は(元どおりかどうかは病状の個人差もあるとは思いますが)動き始めます。この福音箇所に登場する「手の萎えた人」が「手を伸ばしなさい」といわれたときに叫び声をあげたかどうかなど、そこまでは書かれてはいませんし、ご存知のように、マルコ福音書は各地の伝承の取材ですから、本当のところはその場にいたであろう人にしか解らないわけですが。
ここでの奇跡は、決してサラッとしたものではなかったのではないか、という、わたしのなかでのイメージの変化がそのとき起きたのです。病人の癒しをめぐる箇所のほとんどはサラっとした書き方で綴られ、このクドクドしていない簡潔なムードはマルコを読む人に印象的ではないかと思います。病苦との戦いにサラッとしたものはなく、治そうとする医師や医療関係者たちの形相も尋常ではないほど(むしろ怖いほど)真剣そのものである姿です。勝手なイメージかもしれないが、この福音箇所におけるイエスの表情もやさしいものであるよりは、真剣そのもので怖いくらいだったのではないでしょうか。勝手な想像ですが(しかし、想像力によるイメージ形成がなければリアリティーには至らないでしょう?)。
主はわたしたちがそこに近づきたいと思ったときには、一瞬わたしたちを睨むかもしれませんが、その眼差しはあたかもリハビリ科医師が「いいですか、いきますよ」というときの真剣な眼であって、本当は睨んでいるのではないのでは、と思います。むしろ、それくらい真剣な眼で見てくださるというイメージ、両者の信頼の確認のようなものだというイメージで捉えることはできないでしょうか。