加藤 豊 神父
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マルコ8・36ー37)。
カトリック教会では、主日(日曜日)には読まれる聖書箇所が典礼暦に基づいて、はじめから決まっていますから、このみことばを聞いて、「あっ、この前の日曜日(8月31日)の福音じゃないか」と思われるた人、多いと思います。(ここではマルコ、ミサではマタイ、これは両方にある箇所なのです)。
しかし、特設ページの「司祭の主日の説教」はすでに終わっており(ミサが行えなかったときの企画でしたから、いまはもうミサが再開されているので)、それに、これはもとよりミサのなかの説教ではなく、ちょっとそれとは質の違うものです。もちろん、ミサも「みことばを食べる」言葉の食卓としての聖書の朗読があり、朗読台から読まれる聖書のことばを皆で食べるかのようにして受け取ります。だから朗読台は「ことばの食卓」であります。祭壇にパンとぶどう酒、朗読台には聖書、この二つは、ミサにおける二つの食卓なのです。
でも、ここでは、多分その聖書箇所の食べ方がミサのときとは異なるかもしれません。いずれにしても、共に味わうものは、同じみことばですが。
たまたま、その「みことば」という「霊の食材」ともいうべき読まれる箇所が、たまたま、前の日曜日とダブってしまっただけなのです。それでもって、食べ方はミサのときのものとはちょっと違うから、説教のときとはまた別の話になると思います(ミサでは「自分の十字架を背負って」のほうを中心にお話しすることが多いです)。
前置きが長くなりましたが、食べ始めましょう。さて、わたしたちは多分、本当に全世界を手に入れたとしても、きっといつか飽きてしまう。そんな気がします。
喉から手が出るほどに欲しがり、なんとしても手に入れたいものを、念願叶って得ることができたとしても、きっと満たされない。もちろん満足したとしたとしても、また、飽きることがなくても、その場合には、今度は、それをどうすれば失わずに済むだろうか、と心配になり、得られない悩みが、得たものを失いたくないという悩みに取って代わられ、やはり別の渇望が生じます。
また、そのとき手に入れたいものが移り気にも度々変わってしまうこともあります。わたし自身、極端なときには、昨日欲しかったものと、今日欲しいものとが違ったことがありました。皆さんは如何でしょうか。
わたしたちは神の御前で、とても気まぐれで移り気な存在で、一貫性もなく、正直いって、例えば願う相手が天の父ではなく生身の人間だったなら、たちまちその人からは呆れられてしまっているかもしれません。本当に自分が願っているものって何なのか、いま欲しいものは、実際、本当に欲しいものなのか、自分自身の心を調べ、自分自身でそれを探すことは、自分自身には結局できないことに思えます。
ここに、わたしたちの祈りの源泉を見つけることができると思います。「自分探し」という言葉がありました。結構流行りましたよね。でも、わたし以上に、わたしを知っておられる方と共にそうするのでなければ、どうして真実の自己と出会い、それを知ることなどできるでしょうか。
「願う前」から、わたしたちの望みを知っておられる方に、「何を望むべきかを尋ねるような祈り」があってもいいと思うのですが、皆さんは、どう思いますでしょうか。