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「タイトル」というタイトル

加藤 豊 神父

 

 昔(ってどれくらいかというと)昭和40年代くらいに、佐藤ハチロウさん原作のテレビドラマ「叱られる人生」というタイトルの番組が放映されていたと思います。高視聴率でもなかったようだし、誰か覚えている人いないかなあ、なんてくらい自分でもドラマの内容などはほとんど覚えていないくらいの印象的とはいえないような番組でした。ただ、わたし自身は何故か毎週見ていたことは覚えています。そもそも見たいと思うようなタイトルではないですな。「叱られる人生」って。

 

 「叱られない人生」ならみんなが見たかもしれません。でも、そんなタイトルのドラマがあっても、タイトルからしてリアリティーはない。わたしは自分では自分のことを自虐的だとは思っていませんし、たまたま、本当のことをいってそれを聞く側が、随分自虐的な人だなあ、と思うかどうかはわかりませんが、実際には痛いことは大嫌いですけどね。おそらく、子供時代も「叱られる人生」ってリアルだなあ、と思っていたので、わたし自身が叱られてばかりの日々だったのでしょう。仕方ないですよね。人間、叱られなかった人なんていないでしょ。叱るのが好きな嫌な感じの人もいるのかもしれませんが、大概は、叱る側だって、叱るのは嫌ですよね。

 

 さて、何がいいたいのかというと、タイトルって大事なものであるとそのお話をするのに上の例を使いました。「叱られる人生」というタイトルからは、明るいイメージは抱かれないし、それを期待して見る人もいないでしょう。

 

 むしろタイトルから思い浮かべられる内容は、忍耐を余儀無くされる主人公の健気さや、そこから展開する何か感動的な場面、また、自分の体験とシンクロできそうな予感とか、それこそ現実をドラマとして客觀化に対象化できそうな物語なのかという期待などなど。

 

 一捻りも二捻りもあるタイトルの付け方を除けば、タイトルというのは「この中身はこれです」という基準でつけられるので、内容は忘れ去られても、この番組は「タイトル」の勝利ですね。微かな記憶を辿っても、タイトルと内容は決して乖離したものではなかったことだけは、少なくともわたしは(それくらいは)いまでも覚えていますから。

 

 で、ふと思ったのですが。「聖書」のタイトルって「聖書」なのかな、「教会」って言葉、妥当なのかな、増して「神父」って、それにキリスト教の神様って、神社の神様と異なりますよね。キリシタン時代の天主(デウス)様のままのほうが、混乱しなくてよかったんじゃないかな、とか、「仏様」は分けられているのにですよ。と、まあ、いろいろと考えさせられるのであります。

 

 そして何より、このコラムの記事のタイトルも、けっこういい加減に決めてしまったのかな、という反省に至ります。だから「叱られる人生」なわけですね。この記事「叱られる人生」にしようか、それともストレートでも幅は広い感のある「タイトル」にしようか。