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神に向かって(?)

加藤 豊 神父

 

 前回のコラムでは、この世の「人間相手の仕事」にはどのようなものがあるのか、ということについて少し触れ、「司祭職」もそのなかには入るであろうということをお話し致しました。他方その人たちはまた「祈る人たち」なので、「人間相手」でありながらも、「祈り」という行為がそこで為される際には、それは神に向けらます。この点については、その立場がいわゆる仕事かどうかを問わずともキリスト者であれば皆そうですね。

 

 更に広義には「祈る」という営みは特定の信仰と関わりなく日常的に人と人との間で交わされる挨拶のような側面もあります。例えば、入院中の人に「一日も早いご回復をお祈りいたします」とか、「今年も皆さんのご多幸を祈念しております」とか、こうしたやり取りは、なんと無神論を自負している人からさえも聞かれる会話です。無論その人たちにとって、固有の信仰対象はその場
で意識されることはありません。

 

 「祈る対象」を伴っていようと、いまいと、人が人に寄り添い、自分がその人の側にいるこという気持ちを示す場合に、目の前にいるその人(寄り添おうとしている人)たちに対して「・・・ますように」という、想いは湧き上がってきます。

 

 「何に向かって」ということを一旦、脇に置くならば、「祈り」はまことに全人類に共通の営みといってもいいくらいでしょうね。そこでは、祈る対象(祈りが捧げられる先)が、神とか、仏とか、その種の具体的な用語で語られるたりはしませんが、個々のケースは多様なれども、有神論、無神論者を問わず「想い」が優先するので、むしろハッキリとした信仰対象(礼拝の対象)というものは伴わないのが普通なのかもしれません。

 

 ところが、普段から礼拝の対象がハッキリしている人たち(そのなかには司祭も入るのですが)は「人間相手の仕事」でありながら、他者に寄り添おうする一方で、その寄り添う仕方であろう「祈り」は特定の信仰対象に向けられます。従って「人間相手の仕事」と一口にいっても「その仕事は多種多様」、相手が「どういう状況に置かれている人なのか」によって、その仕事内容の具体性もまたそれぞれ異る結果となるわけです(当たり前のことですけどね)。

 

 その仕事が、いったいどのようなものであるのかということを、個々のケースはあたかも鏡のように写し出すことでしょう。商店のご主人なら消費者の「言」をもとに、どういう店か(あるいはそういう店主か)といった想像が可能となり、教職員であれば、生徒さんや学生さんの「言」からそれを知ることも出来ますね。だから信徒のかた(プロテスタントでは「教会員」のかた)の「言」から、司祭の仕事や牧師の仕事について、それがどういうものか(未信者の人であっても)想像することが(ある程度は)可能です。

 

 話は少し横にそれましたが、司祭や牧師にとって、その「相手」が人間であることは間違いないのですが、ただし、その相手に寄り添う際に、相手のために祈る対象がハッキリしており、それは「イエス・キリストの父である神」である、ということになります。そして「祈られる対象(礼拝の対象)がどういう存在(あるいは「どういった存在」)なのか」ということも、祈りの言葉から滲み出ることになりますので、これまた(ある程度は)知ろうとすることは可能です。ようは、様々な事象を通して、間接的な接近によっても(直接に接してみなくても)、多種多様な様々な「人間相手の仕事」のそれぞれの仕事内容について、それぞれの特徴をイメージすることが出来るというわけなんです。

 

 芸術活動に携わる人のなかには、詩人や画家がおり、これまた「人間相手の仕事」といってもいいと思われるのですが、彼らの作品を鑑賞する人たちがそれを味わうとしても、それは結果的にそうなるのであって、果たして彼ら自身、制作中に「これをどんな読みかたで読んでもらいたい」とか、「これ(この絵)をどんなふうに観てもらいたい」といった意思を抱きつつ労作に取り組んでいるわけではないでしょう(結果はともかく制作過程の段階ではですよ)。つまり、その人の内的必然性(あるいは創りたいという衝動)が、その人を突き動かしているので、本人も「なんでこれに取り組んでいるのだろう」という考えを抱くまでもない、ということなのです。

 

 そういうときの作家さんたちの思いというのは「とにかく創らずにはにはいられない」といったものでしょうから、動機というのは実際には「有って無いようなもの」でしょうね。従って、他者からどんなふうに受け取られるかということを予め考えながら作品を仕上げようとする作家さんはほとんどいないのではないでしょうか(と個人的には思うのですが)。もっとも、あえて「問題作」を作ろうとする人はまた別です。そういう作品には初めから「一定のメッセージ性」が込められているので、単純で素朴で純粋で無動機的な創作意欲をもとにした作品とは、また異なる次元で眺めたほうが適切といえます。


 ともあれ「人間相手の仕事」ではあっても(芸術もまた人間による人間のための人間の行為でしょうから)その「創作意欲」のベクトルは明らかに人間を超えた「何者か」に向けられていて(つまり「湧き上がる想い」を「かたち」にすることじたいがそうなのですが)、しかもその作者がキリスト教徒やヒンドゥー教徒であるならば、それは(出来上がった作品は)もうそれじたい「神への捧げもの」あるいは「賜物というか、その恵みを与えてくれた側に還す還元行為(栄光を主に帰すこと)」そのものであるとも言えるでしょう。

 

 近代以前の欧州の人々にはそれが顕著で「音楽家なら神に向けて作曲したり、奏でたり」、「画家なら神に向けて描き」、また、科学者でさえも「研究結果は神への捧げ物」とされたほどです(古代社会では特にそうでしょう)。

 

 スポーツ観戦においてよく見かける場面としては、カトリックのサッカー選手がゴールを決めると十字を切りますよね。あれはいわば「この業はあなたからの恵みであり、あなたがくださった賜物によるものです。わたしは、いただいたこの賜物で、いまあなたの栄光を現しました」という、「感謝の祈り」であり、その人による「信仰の証」でもあるわけです(ご本人にとってはあまりにナチュラルな「習慣」であることも多々あります。南米などではそれくらいカトリックの信仰は現地の人の生活の一部となっていることがほとんどですよね)。

 

 で、それを思うとですね、「ん?なにそれ?」と思ってしまうのが、「カズダンス」。あれってなんだったのでしょうねえ(ファンの皆さん、ごめんなさい)。少なくとも「感謝の祈り」であるよりは、ファンサービスというか、観客への自己アピールですよね。確かにそれも「人間を相手とする」一面として受け取れないこともないが、ここでいう「人間相手の仕事」という定義からは焦点がずれてしまいますから、これ以上いいませんが、もっとわかりやすく「サポーターさん相手」とか「テレビカメラ向けアクション」とか、そういう表現のほうが妥当で、そのほうが肩がこらない言い方でしょうし、「人間相手」という枠組みに当てはめなくてもいいと思うのですが(というか、そもそも誰も当てはめてはいませんね。わたしが勝手にそう思っただけですが)。

 

 日本はキリスト教国ではありませんが、それでも人間の手が届かない事象について語られる言葉は多く、「勝敗は時の運」という考え方や、「惟神の道」(かんながらのみち)という世界観は持っていたし、それはいまでも「おかげさま」という一言にも明らかです。

 

 すみません。いいたいことが二つあるわけではありません。ただ「人間相手の仕事」のなかには「人間とは何かという思索」を背景とせざるを得ない仕事があって、その上で「人間自身には理解不能でもその人間存在を包括する大いなる何か」に向かう視点とは決して切り離せないものをして、ここでは扱おうとしています。

 

 そういう見方からすれば「詩人」という(仕事といっていいかどうかはわかりませんが)ものはここでいう「人間相手の仕事」であろう思うのですが(読み手が人間ですから)、それはまた「人間相手」であると同時に、「詩人が紡ぎ出す詩」というのは、場合によっては神に向けられた歌、または「問いかけ」なのであり、ひとつの「祈り」でもあるような気がするのです。

 

 よく「芸術には本人の自己満足のような要素がある」という人もいて、その意見にはある意味で共感できますし、事実、作った当人にしか理解できないような難解な作品は世間に数知れないようにも思えます(わたしは現代音楽や前衛舞踏またシュルレアリズムなどには無知なのでそれらについては何もいえませんが)。ただ、全ての芸術がまるで「祈り」のようなものと見做されていた時代も人類史にはあったことを、わたしたちは忘れてはならないでしょう。一見、自己満足に見えても、創り手である彼らは、「そうせざる得ない何か」に突き動かされて事に取り組むわけですし、その根拠となる衝動は多くはおよそ虚栄心や自己顕示欲とは無関係なものでしょう。

 

 「旧約聖書」の詩篇などいわずもがなで、それを読むときに人々が真っ先に感じることは、それが「祈り」だということで、文学作品としての価値の有無といった基準でそれを語る人は少ないでしょう。誰が見てもわかるように、それは先ず「祈り」であります。

 

 詩人がその作品を読ませたい相手となるのは生身の人間であったとしても、ダビデやアサフその他の詩篇の作者たちが歌う内容は「祈り」であるから彼らの創作意欲をして向かう方向というのは「神に向かって」となります。もちろん、「人へ」と「神へ」というのは二つで一つといいますか、「神と人」「人と人」との関係性はこの場合、分離できずないわけですが(マタ22:36-40)。

 

 さて、何十年も昔のことですが、わたしはあるとき某出版社から出ていた「カフカ論」というタイトルの本を読みました。そこでは、論を著した先生が、その著書において(また別の詩人の句を)引用した一節が載っていました。「ぼくは(その詩人は)毎日、日記を書いた。日記なんて自分以外の誰に読ませるわけでもない。でも、書かずにはいられない。それはぼくにとっては宗教でいうところの『祈り』のようなものだった」。

 

 何らかの「祈り」の経験がある人なら(キリスト者でなくても)わかっていただけると思うのですが、それが「祈り」である限り、自分を(あるいは人間の知的理解を)超えたところへと向けられます。

 

 その中身がどうであれ、唯物論ではない限り、それは「自己満足」というわけではなく、しかも、そこに「たどたどしさ」や曖昧さがあっても「祈り」じたいが体験の世界なので、傍目から「聴くには綺麗」だというだけでは意味がありません(もとより「祈り」とは「神との対話である」などといわれ、それじたいに喜びがあるという点では本来は「合目的的」なものでもないでしょう)。

 

 同様に、もし、「描く」ことや書くこと、また「奏でる」ことや「彫る」ことに喜びを感じるという人は、手がけた作品が世に出ようが出まいが、他者からの評価が好かろうが悪しかろうが、そういうことは気にせずにそれを続けるべきでしょう。なぜならそれは「祈り」のようなものかもしれません。究極の他者存在(人間相手)であられた主ご自身がこう仰っておられます「わたしは人からの誉は受けない」(ヨハネ福5:41)。

 

 さてさて、それはそれとして、このコラム。これはこの後いったいどういう方向に向けられたものとなるのでしょうか、書いている自分が自問自答している今日この頃なのであります。果たして「神に向かって」って、なっていくのかな・・・。