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「ミサ」を思う

加藤 豊 神父

 

 作家オスカーワイルドの「ドリアングレイの肖像」という小説があります。ご存知のかたもおられるでしょう。記憶が曖昧なのですが、確かそのなかで、主人公のドリアングレイがローマ・カトリックに改宗した際の心情が描かれています。

 

 もっとも、改宗前の彼の教派はどうだったのか、改宗は、アングリカンからなのか、長老派からなのか、残念ながらもう忘れてしまいました(本屋さんに走ればちょっと確認してくることも可能かもしれませんが)。しかも、小金井だけでなく、おそらく各地の教会には(わたしが知る限り)「あの種の本」は置いていないと思われます(「ワイルドってデカダンスでしょう」って人もいます。それはそうかもしれないですよね)。

 

 ドリアンはストーリーのなかで、彼なりの「ミサ理解」を述べており(それ即ちワイルド自身の「ミサ理解」や「ミサ」についての知識であるわけですが)、わたしはそれを読んで驚いたのです。「なんと核心をついた見方なのだろう」と。

 

 似たようなことはこれまで随分あって、例えば「ユング」といえば師のフロイトに反旗を翻した人(?)という程度にしか思っていなかったのですが(オカルトっぽいところもあったので気になったくらいで)、彼の著書「ヨブの答え」を読み「神学者でもないのにここまで書けてしまうんだ」と(そのときはですが)びっくりしたのです。

 

 そもそも、わたし自身の神学の知識や読書量などは、司祭であるにも関わらず、恥ずかしいくらい乏しいものですから、わたしがこれまで学んだことくらいはユングなら既に余裕で身につけていた「教養」(「信仰」とはいいません)だったのかもしれません。

 

 だいたい「ヨブ記」はあまり読まれない感がありますよね。そのせいかわかりませんが、「ヨブ記」など、聖書中の「知恵文学」といわれる箇所の研究というのは、(「新訳の各箇所」や「旧約」の「預言書」などと比べてですが)実際なかなか進まない現状もあると、かつて聖書学者の先生から聞いたことがあります。にも関わらず「神父さん『ヨブ記』の勉強会をやってくださいよ」といったご意見は案外あって、わたしもそれをいわれたことがあります。わたしはその度に「みんな人間社会の不条理や、また、その人の信仰生活で時々生じる様々な矛盾など、そういうものを感じながら日々、必死に生きていて、ヨブと自分を重ねて考えていたりするのかもしれないな」などと、そういう思いを抱いていました。

 

 ただ悲しいかな、わたしにはそういう勉強会の「場」を設けることが出来ても(コロナでなければですよ)内容については自分の力量からして困難を感じてなかなか実現できなかったり、また情報収集しようにも「知恵文学」に特化した解説書は本当に少ない(わたしが知らないだけかもしれないのですが)のです。ところが、小説家であるワイルド、心理学者であるユング、そんなところにヒントと思しきものがあったのは、思いもよらないことでした。

 

「みずからこの世界を創造し、しかし当初の意には異なるものとなり、その世界を舞台に多くの悲劇が繰り返され、その連座制を直に身に追う人間の現実に対し、創造主がみずからがそこに介入し、新たな「いけにえ」による和解への道を展開しようと望む」という「贖いの業」の実現は、約2000年前にイエスによって成し遂げられましたが、それでもなお、現在も(というか過去にも度々)「なぜ」という叫びは続いています。

 

 いまとなってはコロナの惨劇は人類にとって一番の関心事でありましょう。こうした「贖い」の観点、イエスがその「贖い主である」という認識は、聖書(旧約聖書)を聖典とするユダヤ教にもまた(コーランよりは下位に置かれていてもやはり聖書を背景とする)イスラム教にも見られない正統キリスト教の(かなり重要な)特徴で、「ミサ」は、まさに上述の具現(立体的表現)といいましょうか。カトリックの信仰内容が全てそこに詰まっているといっても、まあ言い過ぎではないと思います。

 

 ミサこそ「もっとも妥当なカテケージだ」と語る司祭たちもいますし、それはそうなんですよね。プロテスタントの方々からすれば「完全に贖いを成しとげて天に上げられたキリストの業」に強調点を置きますから、あくまでも「ミサ」ではなく「聖餐式」という式を行うようになったと聞いたことがあります。マルチンルターはカトリック修道司祭であった頃に「罪深い人間がどうして神に対して(自力的に)捧げものをすることができるだろうか」ということに悩みましたし、またカルヴァンは「既に完成した贖いの業を後から何度も人間が行うことはまるでそのときのキリストの贖いが不完全だったかのようだ」と考えました。

 

 その辺りが「新教」「旧教」の「晩餐(聖餐)」に関する考え方や捉え方の違いなのでしょうね。わたしの神学生時代、そのとき神学院に聴講に通っておられた「バプティスト」の先生と、こういう話をしたことがあって、「なるほど、そうなのか」と、いろいろと考えさせられたものです。これはよかったです。学生のわたしも、また先生にも、双方自分の教派との類似点、相違点を「対話」によってより深く知ることができましたからね。「わたしはガチガチのカルヴィニストです」と仰っていたその先生からは、決して嫌な印象を受けませんでしたし、いまでもいい思い出です。

 

 さて、話は少し横にそれましたが、現実にはカトリック信者の皆が皆「ミサ」の豊かさというか、魅力というか、そういうものを味わっているのかというと、なかなかそうはなっていないのが正直なところです。わたしたちの努力が足りないのか、専門家の方々の人間的な弱さによるいろいろな意見の違いや主張の違いが事を進めることに支障となっているのか、それはわかりませんが、もとより2000年も続いた教会には、課題となっている物事の整理だけでも膨大なものがあり一つの教会(小教区)に送られてくる多様化した活動団体からのチラシやポスターは文字通り多様で多量であります。(それゆえ実直に感じていることを告白しますと)どれも大事なことでありながら、それでも「やることが多すぎる」感触があり、それはわたしだけでなく、そう感じている司祭も信徒もいますよね。

 

 一つの教会や他の共同体の内側を見回してみても、やるべき大切なことが多々あって、どれも大事なことではあっても、時間的、また物理的に無理なことは本当に多いです。ようは様々なことのうち「いま、ここで」(これは典礼用語でもありますが)しなければならないことや、知らなければならないことについて、それがなんなのかをもっと見極めていかなければならないでしょう。

 

 各々が「やりたいこと」や「しておきたいこと」があっても、それにも増して、先ず何よりも「これ」というものがあるとすれば、やはりミサでしょうか。「いまさら」とか、「もう、わかっているさ」という声が上がるなか(わかっている人ばかりではなく「もっと知りたい」という人もまだまだたくさんおられ、しかもそれが信仰の中心的な事柄なのですから、なおのこと)、「ミサ」を深く知り、「ミサ」によってもたらされるものについて思いを深めることはいつの時代にも大切です(キリがないといえばキリがないが、しかし、それでもなお)。

 

 それはまた、ユングがいうところの「ヨブの答え」というか(八方塞がりに陥ってしまったたときの打開というか)、あたかも旧約が達したその限界点を示すかのようなヨブというキャラクターに対して応じようとする神の側からの働きかけ(招き)であるともいえるでしょうし、現実を生きていくわたしたちにとって力となるであろうものでもあると思うのです。