加藤 豊 神父
以前にいた千葉の教会では、ご子息さんに先立たれた家族が多くおられました。わたしは8年いたもので、毎年、ご命日の追悼ミサの依頼を受ける度、ミサの中でお名前を読み上げることになりますから、故人の洗礼名や下の名前を覚えるわけで、「あれからもう一年経つのか」と(毎年)ふと物思いに耽ったりしていました。
息子さんや娘さんに先立たれた方々のその当時の悲しみをお察ししますに、今思い出しても胸が締め付けられるような気持ちになります。
その日は、まだ年若い息子さんを交通事故で亡くされた親御さんご家族からの依頼でミサの中で追悼のお祈りをしましたが、ミサが終わると、わざわざ香部屋までお礼に駆けつけてくださったそのご家族に、わたしはまだ祭服の着替えを終えていないまま、こんなことを申し上げたことを覚えています。
「辛かったでしょうね。今は皆さん明るくしておられますが、思い出して涙することだって、きっとあるでしょう。こんなことを伺うと、かえって思い出させてしまうかもしれず、お聞きするべきではないのかもしれませんが、大変な試練をとにかく、よく乗り越えましたね」。
すると皆笑顔で、そして落ち着いたご様子でこうお答えになりました。「いいえ、神父さん、乗り越えられる試練だったからこそ、与えられたんですよ」。
わたしはハンマーで頭を叩かれたくらいの衝撃を受け、心底、感動しました。「信仰を持つ」というのは、「そのほうが持たないよりはいい」とか、「そのほうが祝福が多いから」とか、そんな問題ではないということを改めて教えられた気がしました。
わたしたちは、日々これ試練に会うこともあるわけで、それに耐えられるように祈りますし、実際それでいいのですが、本当に大切なのは、試練が不本意にもやって来てしまったときに、それを受け止める「受け止め方」をそもそも学ばねばならない、ということだと染み染みと思ったのでした。
教会には、たとえ目立っていなくても、根の深い信仰を抱きながら物事をじっくりと見て思い巡らすような人が、どれほど隠れていることか。その日は、自ら教会に身を置く司祭という立場にあるわたしにとって、情けないことに自分の甘さや基盤の脆弱さを振り返る一日となったのです。