加藤 豊 神父
ある教会から別の教会へ(?)
I教会出身の彼女は、熱心なカトリック家庭に生まれ育った(やはり熱心な)人でした。仕事の都合(に加え結婚相手の都合)で引越したのですが、熱心で真面目で、潔癖で、また、教会の約束事にとても忠実な人ですから、「引越したら最寄りの教会に信徒籍を移す」ということを知っていたので(あるいはそのときになってご両親に詳しく聞いたのかもしれませんが)、所属教会から自分の「転出証明書」を発行してもらい、引越し先の最寄りの教会に行き転入手続きをしました。
これは正しいことなのですが、ただ、地図では離れていても家から教会までの交通にかかる時間は総じて(徒歩などを含め)今までの教会とそことでは、それほど変わりません。山手線沿線の教会に移ったものの、元々はその輪の中にある地点にいただけです。ずいぶん前だし、その後、彼女と話していませんが、ご両親からは先日お手紙をいただきました。
ともあれ、今どうしているかという問題ではなく、その当時、彼女が感じたショックは相当なものだったという話題でありまして、子供の頃から慣れ親しんだ教会はかなり規模が大きく対して、転入した教会も大きいが前ほどではないのと、それ以上雰囲気が全然違うと驚いた、というのです。
都内には沢山の修道会委託教会があります。会の霊性の違いは、司牧の場にも滲み出るものです。それが教会ごとの雰囲気の違いになることは否めませんが、それよりももっともっとその何倍も強烈な事例としては、修道会委託教会から教区直轄の教会へと転入してこられた方々のケースを挙げることができます。最近ではあまり聞かなくなったことですが、以前はこうした相談をお受けすることが本当に多々ありました。今は大分落ち着いてきた思います。
ご存知のように、カトリック教会は「聖なる」「普遍の」「唯一の」教会なのですが、その一方で、広く独特の地域性や各地の文化的特徴なども大らかに受容する多様性に満ちた教会でもあります。その地域の地域性に何か独自性があれば、おのずとそこにある教会もその地域性による独自性を纏いますし、そこに通う人たちの間にキャラクターにおける一定の傾向があれば、それとして教会のムードはその傾向を持つことになるでしょう。
まことに個々の教会には、人間と同様に教会の個性というものがあります。しかし、たとえ、そうだとしても、カトリック性(普遍性)というものには違いはありませんから、「教会ごとの雰囲気の違い」はこの世限りの地上の姿であって、どれも皆カトリックならカトリック教会です。ただ、そうはいってもこの世にいる限り東西南北という方位があるし、過去と現在と未来という時間の流れもあるし、上下左右という方向もあり、生身の人間はそこに身を置いています。どうしても違いは一旦気になってしまうと、もうずっと気になって仕方がなくなったりもします。
先にも触れましたが、個々の修道会にはそれぞれ、その会の霊性というものがあって、それは個々の会によって違ってきます。その会のその霊性は、そこいる神父様の霊的源泉なわけですから、公平性に気を配る司牧の場でも、それは無意識に浮かび上がるものでしょう(むしろそれはなければならないでしょうね)。だから例えば「イエズス会の教会」と「ドミニコ会の教会」では雰囲気が異なるのもいわずもがなだし、「サレジオ会の教会」と「フランシスコ会の教会」もまた然り。
こうした違いは、単に地域性の違いや、歴史の長さの違いや、その小教区の持っている特性の違い以上に、けっこう影響力をもたらす相違です。わたしは教区司祭なのでニュートラルな視点でそれらを見たり感じたりするわけですが、子供の頃からずっと受洗教会にいてその教会しか知らない彼女にとっては、そこで感じられるムードこそが即カトリックのムードだったわけですから、同じカトリックであるはずなのに、主観的にはなかなかそれがピンとこないところがあったのでしょう。まあ無理もないことなのかもしれません。
で、これはまあ「多分」なのですが(確認していませんが)彼女はその後もといた教会に信徒籍を戻し、ご両親とは別々のところに住んではいても、教会には一緒に通っているのではないかな、と勝手に思っています。実際には解りません。「とりあえず、しばらくは、そのほうがいいかもしれないな」というわたしの思いが事実に先立ってしまっているのも確かです。
一見バラバラに見えるものでも、それはまた別の言い方をすれば多様性に富んだ一種の豊かさであるともいえるものです。「よくよく見なければ」なかなか普遍性というのは捉えがたいものなのかもしれません。しかし、たとえこれは捉えがたいとしても、やはり「よくよく見なければ」(見ようとしなければ)ならない、といいたい。そうでないと思わぬ誤解が生じ、事に関わる人たちにご迷惑をおかけすることにもなるからです。
「受け取る側の受け取り方に由来する大いなる誤解」というものがあると思うのです。こうした事情や一種の法則のようなものが肌感覚で解ってくると「違い」が多様性に感じられるようになります。こうしたことは、どれがいいとか悪いとか、そういう次元とは全く異なるのです。わたしが知っている修道会の神父様がたのほとんどは他の会にも教区にも理解のある方々です。だから、そういう修道会の教会でいい思い出を沢山いただいていればいるほど、そこを任されている会の不名誉になるような誤解は絶対に避けて欲しいのですね。
普遍の教会(カトリックのカトリックたる姿)を観るためには、どうすればいいのか、それには少なくとも、そこにある「そのムード」を超えた背後に「今も、いつも、世々とこしえにあるもの」に注目しようとすることだと思います。そこから巨大な何かとの新たな出会いが始まるのだと思います。