加藤 豊 神父
地上的(世間的)感覚と「教会」
~わたしたちはどこへ向かうのか①~
はじめに
「責任感」という名の「支配欲」?
もう、何年も前に亡くなられた先輩司祭が言っていたことです。彼は若い頃ドイツで働いていたことがありました。ある日、現地の司祭から問われたそうです。「君は司祭にとって最も注意すべき誘惑はなんだと思うか?」と。
師は当時、本当に若かったので、思いつく誘惑は次々思い浮かべることができたらしいのですが、迷いに迷った後で「わかりません」と答えたそうです。
すると現地の司祭はそれを受けてこういったそうです。「一番危険なものはそれは責任感という名の支配欲だ」と。師はとても驚いて、ハッとさせられたというのです。
難しい問題だな、と思います。それは集団を牽引するような仕事をしている人、経営者や中間管理職はもとより、企画プランナーやプロジエクトリーダーなどに至るまで、ひたすら責任を果たしていればそれだけでも優秀な人材といえそうなものですが、キリスト教的にはそこで「支配欲」というものに最新の注意をはらわなければならないという布石が打たれることにもなるわけです。
無論、責任感が強いことは人間にとっての長所であるはずですが、人の心にはどうしても光と闇があり、ともすれば責任感は支配欲と表裏一体だというのです。こうした誘惑は神父に当てはまるのだということを、師は留学中に学ぶことになりました。
ただし、「無責任」が「善」であるはずはなく、ここで重要なのは、責任感が「支配欲」に取って代わられてしまうことのないようなバランス、人と人との関わりにおける「人間感情の手綱」であり、ちょうど「自由」と「放縦」を取り違えてる結果に起きてしまう不幸を回避することでありましょう。
このコラムでは、結局は、人(自己も他者をも)を苦しめることになってしまう人間の衝動や、そこに必ずといっていいほどに纏わる光と影を見ていきたいと思います。
1)流行には「流行る以前に作り出されて始まる」ものがある
服飾デザイナーのアイデアは商業ベースに乗り、その後に広報されて小売店に出回って行きます。服の売り上げがよければそれはいうまでもなく、デザイナーの業績だし、ビジネスにおいては広報戦略の成功となりましょう。わたしはこうした一連のプロセスの背後に「着せる支配」を見てしまうのです。
もちろんこれらのプロジェクトに関わる人たちの皆が皆、消費者に対する「着せたい願望」を持っているわけではないし、むしろ服飾の領域で未来を開きたいという純粋な人のほうが多いとは思います。ただ、ここに支配欲や虚栄心が入り込んでいると思しき関係者がいるのは、悲しいかな現実でありましょう。
「わたしがデザインした服をみんなが着ている」と、そのデザイナーが想うとき、素朴に「自分のセンスが受け入れてもらえた」という気持ちを抱くのであれば、それは一つの手応えや「励み」や「やりがい」となるのだろうけど、もし、支配欲が優先してうごめくならば「みんな俺を着ている」というくらいの虚栄心が見え隠れしてしまうことにもなります。見ていて感じのいいものではありません。
また、売り手としては「見ろよ、俺たちが売りたかったもの(宣伝したもの)をみんなが買ってやがるぜ」と想うときにも、やはり、一種の征服感のようなものを覚えてしまうとか、そういう心模様が、これまた見え隠れするというわけです。この手の「俺の手柄」的な満足感や「大衆を踊らせた」的な現象に伴う関係者間の高揚感は、わたしたちキリスト者にとって、ちょっと恐ろしいもののように思えてしまうことでしょう。
同様に、他人に対する「わたしのお陰だろ」風の「上から目線」もまた、なんとなく上述の「着せる支配」と似ていますよね。
2)「笛を吹いたのに踊ってくれない」のは笛吹くファリサイよりも彼のほうが素直だから
「ドーンと大きなことをやらかしたい」とか、「グーンと名をあげたい」という志は、どうやら、みずからの存在感を示したいタイプの男性に多いようです。現代のカトリック教会の基本的な価値観からは、残念ながらそれは時代錯誤というか、極めて世俗的な感覚といわざるを得ません。
確かに昔(中世と呼ばれた時代)は「修道院」が「カルチャースクール」のような役割を果たしたし、今でも教皇はカトリック教会における地上の代表者たる立場であるので、「権威主義の匂いに敏感な人たち」は、教皇という存在から発せられるメッセージを敬意をもって受け止めますが、その敬意の払い方がそもそも世俗的だったりもします。
教皇発言を傘にたちまち自己装飾したり、自己の権威や言動の根拠としたり、それによる理論武装をしたりと、しかもそこから隣人を動かしたいときの力として大義を振りかざしたり、と、およそ美しくない立ち振る舞いに至ってしまいます。そこでは「信仰によって理解されるべき権威」が、「世俗の社会における権勢」とが混同され、混同されたままの感性が教会内に持ち込まれることがこれまでにもしばしばありました。
上記のような混同は、心あるカトリック信者には懸念材料でありながら、案外、気づかれにくい現実です。教会が崇めるものの側に立ったつもりで振舞うことで、他人を巻き込むという力学的な発想は、なんと非福音的なことか。そもそも現教皇がどれほど世俗的価値観に立脚した出世主義の類に批判的なことをいっておられるのかを知らない信者はいないはずなのです。
とはいえ「権威主義の匂いに敏感な人たち」は、そのような教皇の考え方じたいを、みずからの権威づけに使ってしまうものだから、純朴な信者たちは、迷走する情報を前に(そうでなくても情報の混乱が常なのに)、もう、わけがわからなくなってしまい「とりあえず協調する」という対し方を採ります。
わたしの友人である大阪教区の司祭S師は、こうした現象に対して冴え渡る指摘をしています。「特定の権威を自己目的で掲げる人も、それを盲信する人も、逆に権威という権威を全て批判する人も、等しく権威的である」と彼は論文に書いています。更に「権威という権威を批判した後には、それらを批判し尽くした批判者が権威者となる」と。
「権威という権威を批判した批判者が権威者となる」、ここでお気付きの方々もおられると思いますが、これまでの社会的な権勢というものは、いわゆる旧メディアに握られていたのは明らかでしょう。民意を左右する影響力があったくらいですから、政治家でさえ旧メディアに立ち向かうのに難色を示したと思いますし、あるいはそれを利用する政治家もいたことでしょう。
こうして人は皆「我知らず」一定の方向に「無意識に」向かわされるということになっていきました。
(続く②)