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「論理的矛盾の標本」萩原朔太郎礼賛

加藤 豊 神父

 

 1)萩原朔太郎のファン(わたし)の妄言「評論なんかじゃない」。

 わたしは萩原朔太郎が好きでした。といっても夢中になって詩集を読んでいた若い頃からすれば、いまはほとんどその詩文もまばらにしか覚えてはおりません。それでもなお、当時の衝撃は忘れられませんが。

 

 学校での成績は(小中通して)下の下であったわたしも普通に「学校という(嫌いな)場」でこの詩人に出会い、また、ごく普通に「本屋という(調和できない)場」で詩集を買い、「自宅及び喫茶店という(惰性の場)」で打ちのめされてしまいました。ここまでは、まあ普通ですね(論理的かどうかはともかく、その詩が異常な世界であったとしても、読者たちは概ね普通に生活していることでしょう)。

 

 朔太郎は、まことに「芸術家としての矛盾を、はばからない芸術家」であったように思えます。それは、たかが「詩」であると知りつつも、みずからが、そこに「運命ともいえる何者かによって引き摺り込まれることをも、はばからない」のです。だから「詩」に「いつの間にかそこに沈殿させられていくみずから」を自覚しながら「詩は神秘的なものでも高尚なものでもないのだ、と、のたまうことを、はばからない」。「病める魂を背負わされた者たちの慰めであること」について、そこに優劣を競う価値観を持ち込まず、ただただ「詩のにおい」が蔓延すれば「においによって喜ばされようが、悲しまされようが、はばからない」で「においを嗅ぎつけては反応することを、はばからない」。

 

 こんな詩人が実在したものだから、その詩に影響されてしまったが最後、人生を誤ることにもなりかねません。でも「その種の人たちも、たとえ破綻したとて、結局それを、はばからない」。従ってズルズルといきます。不味いです。なのにその種の人は「その不味いほうに落ちていくことを、はばからない」わけです。期待も絶望もありません。なぜなら、ここでは、そんなもは「価値」なので「価値判断が及ばない物事」にとって、それはありえません。

 

 では、朔太郎の詩の内容がニヒリズムなのかというと(そう見えなくもないわけですが)、朔太郎は「かっこつけ作家」が、よく「かっこつけキーワード」をもとに発するところの「芸術にモラルはいらない」(例えば村上龍曰く「美意識が必要でモラルはなくていい」など)とは決していわず、むしろ「道徳」にも「人類普遍の共通性」についても語ります。ついでにいえば、もちろん「シュールレアリズム」でもありません。

 2)共感を伴う慰めは「答えならぬ答え」。 一緒に「月に吠える」ことに似て。

 ところで、時々、司祭職も「論理的矛盾の標本」のように思えることがあります。もちろん多くの司祭たちによってそれが意識されているわけではありません。もっとも、それを「皮肉としての自己理解」に応用している人はいますが、真正面から、それを見据えている、という人はほとんどいないし、いたら不味いかもしれません。

 

 いったい「自分を変人と語ることを、はばからない」朔太郎は、そこに(これもよくあり勝ちですが)孤独な者としての優越感も(更に)通俗性に負い目を感じる劣等感さえも介在させることなく、「変人」である、ということを前に、ただそこに佇んでいます。ある意味自然体です。しかし、どういうわけでしょう(否「わけなどない」のでしょう)その変人の詩が与えてくれる「落ち着き」や「安らぎ」の数々、いったいなんなのか。「その中味」「それすらも」「それじたい」が「論理的矛盾の標本」なのか、なんなのか。カミュの言葉を借りれば「認識のドンファン」といった態度が垣間見られる気がしますが(自分に対しても体験者や目撃者となりきってしまうということにも似た「達観」のようなものがあるからなのか)わかりません。

 だとしたら、もし「自分を見つめることに過ぎてしまう」と(最後にはこうなるのであれば)あまり「自分自身を見つめることに過ぎてしまう」のは、「回心」や「振り返り」という信仰の次元にとって少々、問題となってしまうものでもあるでしょう(つまり「落ち着き」や「安らぎ」は、信仰において恵みではありますが、しかし究極的な目的というわけではないでしょうから)。

 

 それはともかく、こんにち「言葉にならないことを、あえて言葉でもって語る」という手法に対し、あまりにも「言葉使いにこだわる物書き」が、やれ「主観的だ」やれ「適切でない」と詩人を蔑むのは、如何なものかと、わたしも思います。いや正確には「正しい言葉使いが大切」なのはいうまでもないことだが、その不毛な正論を振り回しては勝ち誇るかのような態度は、誰の眼から見ても嫌な印象を抱かせるものとなるでしょう。その「相手が抱く嫌な印象」を「いや、そんな見解は負け惜しみだよ」という独りよがりも「嫌な印象に輪を掛ける」という。

 3)「月に吠える」その人に「月が呼応す」。 

 「詩」も「絵」も「音楽」も、説明が着かないような仕方で人の心を直撃する、という点では「言葉以上の言葉」なのですから「論理的矛盾の標本」であって然るべきもの(というと言い過ぎですが)でありましょう。朔太郎が仮に立てた一種の「二元論」のようなものがあるとするなら、それは「常人」と「変人」の「どちらが優れているか」とか「孤高の人」と「人気者」とでは「どちらが芸術に相応しいか」とか、そんな両者のどちらかに軍配をあげるような、二元論ではありますまい。そうではなく、そこで展開されるのは「独善的な解らず屋」への「変人からの憤り」であり、「振動し易い」ことと「振動を一方的に悪しきことと決めてかかる偏狭さ」(誤解を避けますが「振動しないことじたい」ではないですよ)の二項対立でありましょう。

 朔太郎的に詠われる「詩」の特徴は、こんにち司祭職にも求められている気がします(わたしの勝手な感想ですから、これくらいはいいでしょう)。というのは、わたしたちはともすれば(特に司祭は)「悩み苦しむ人たちが望めど出せぬ回答」というものについて、ついつい論理的に「答えようと」してしまうところがあり、もとより「出るはずのない回答」ですから(善意からではありますが)「必ず解いてあげましょう」などと安請け合いし後々期待を裏切るような「変なこと」になります。しかも「答えのないような極めて人間的な問題」と向き合う際に「論理的矛盾の標本」で応じてしまうことに関しては「まるで敗北であるかのような対応」としてしまいかねないのです。

 

 しかし、本当に「敗北」でしょうか。人間じたいが生物学的な自然法則からは様々な矛盾を抱えた存在者であって(これまた「矛盾していないという錯覚」を好むのが人間なのですが)実は「論理的矛盾の標本」が時折、必要となることがあるはずです。例えば「共感的受けとめ」が「答えならぬ答え」としてと「相談者にとって慰めとなる」ことがしばしばありますが、ただし、これは「その問題を解いた回答ではない」わけです。朔太郎は「振動する」という表現を使います。「振動」は、ひとつの「共感」といえないでしょうか。主なる神と人との間で交わされる「振動」があるなら、それは「叫び」にも似た「追い詰められる人」の「祈り」からはじまります。

 4)お腹が空いたら誰もが食べたいと思うように、追い詰められたら「月に吠える」人もいる。

 もっともこの「論理的矛盾の標本」が「だから重要だ」などというつもりはありません。それほどのものではないでしょうし、一般的には「無駄に難解なもの」にも思えるでしょう。少なくとも朔太郎的な世界では、朔太郎自身「一般に重要なもの」とは思わないのではないでしょうか。それは「必要時に生じるも」といったほうが妥当です(必要もなく飲む薬は毒となるくらいのものでしょう)。但し逆に「だからいらない」という人がいれば、とっても自信過剰ではないか、と思うし、その他「つまり相対的なものね」とも、いいきれないでしょう。この発想も「割り切りたい願望」でしょうか。それぞれケースが一定ではないのですから、なんともいえないでしょう。誰かに必要かもしれないし、全員に必要かもしれないし。

 役に立つかどうかなんて計算が成り立たない「たまたま持っていたら、たまたまそれが必要になった」という類のものが「論理的矛盾の標本」でしょう。だからそれは「何某かの価値」が「初めからある」わけでもなく、「何某かの価値が初めからあるどころか不明なも」であって、このコラムなどもそうで「よく解らない戯論」のようなものかもしれません。でも、戯論を書いてしまうわたしは、いったいなんであるのか、否、それもまた、動機も含めて「振動し易い」ときに「振動した」結果に過ぎず、意味が「ある」のか「ない」のかさえ、みずから知ることもないままです。

 

 「ついにイカレたか」と問われれば「そうなのかな?」としか返事が出来ず、また「禅問答」さながらに読み手に向かって高みからわざと「解らないこと」をいっておいて「君たちには解らんだろうな」など(こういうのも変な流行となり得ますからね)という「この上もなく傲慢な気持ち」などは誓って皆無です(というか、そんなこと、したくもされたくもないのです)、はたまた「なんでなんだろう?」と「己の心」を探ってみても「言葉ならずを言葉にしたい衝動」くらいしか、せいぜい思い当たるところはなく、詰まるところ、「これ」も「わたし」も「論理的矛盾の標本」かもしれないと思えるわけです。

 

 「8月は祈祷、魚鳥遠くに消え去り、桔梗いろおとろへ、しだいにおとろへ、わが心いたくおとろへ、悲しみ樹陰をいでず、手に聖書は銀となる」(山居)。