「一つになるのか」「同じになるのか」
加藤 豊 神父
「一つになろう」という聖歌があります(典405番)。またミサ典礼書「第二奉献文」の式文には「聖霊によって一つに結ばれますように」という箇所があります(いま式文は変っています)。この「一つになる」「一つに繋がる」というのは、全てのキリスト者が常に気にしているところだろうと思います。
決して「同じになろう」ということではありません。厳密には「一つになる」ことと「同じになる」ことは一括りにできない性質があります。「同じになる」のであれば、一人一人の個性や独自性はどうでもいいものになってしまい、その基準だと「同じでないもの」は「間違ったもの」ということになってしまいます。金子みすず風に言えば「みんな違ってみんないい」というのは、「こんにち的な多様性」からすれば、かなり重要な視点です。
「多様性のなかの一致」に思いを深くする際の要点は、それぞれ「違ったもの」であっても「一つになろうとする」ことが出来るというメッセージなのだと思うのです。
わたしが神学生だった頃、一部の学生たちから「君は個人主義者だ」と、よく揶揄されたものですが、なぜか養成担当者の神父様がたからは、その種の注意を受けたことがありませんでした。わたしだけでなく、わたしと仲のいい学生たちも、わたし同様「個人主v義者」と言われて批判されていましたが、いま思えばそういう批判をしていた側の学生たちは、皆一様に「群れ」をなして「同じように」行動し、「同じような」考え方であることを良しとする傾向を持っていた人たちでしたから、彼らから見てそうでないわたしたちは「個人主義者」に思えたのでしょう。
しかし、そのレッテル貼りは当然「一方的だな」という感じをわたしたちに与えてしまいます。それに、高潔な「個人主義」とわがままな「個人中心主義」とは異なりますから、単純に「個人主義者だ」と決めつけられても「何処が何故いけないの?」となります。共同生活ですから協調性は大切です。しかし、協調性の有無を理由に、「個人主義」への批判がなされているというわけでもなさそうなので実際なんだか、よくわかりませんでした。
いま振り返ってみると、当時わたしたちを批判する側の学生たちからすれば、「なぜ、君たちは僕たちと同じようになれないのか」という気持(?)から、私たちを見ていたのだと思います。だから、いま改めて思うのですが、この「同じになる」あるいは「皆が同じになるべきだ」「皆が皆、同じように考えるべきだ」との主張が、何やらとても「全体主義的」で、本当の意味での「一致を目指す」ことには、かえって支障をきたすものとなってしまうのでは、と感じられるのです。
「一つになる」ことと「同じになる」こととの質的な差、キリスト者自身の「共同体理解」に関しては特に注意が必要だと思うわけですが、「それぞれがそれぞれで良い」のなら、それすら一つの考えにすぎないかもしれません。
もとより「協調性」はイデオロギーから生じるものではありません。批判されていた学生たち(わたしも含め)からは「君(たち)は個人主義者だ」と批判してくる側の学生たちへの批判というのは皆無でしたから、現象としては対照的でした。「君のほうこそ全体主義者じゃないか」と言い返した学生はいなかった。
やはり「同じになること」と「一つになること」とは、似て非なるものだという気がします。
もっとも、それぞれのテキストの文脈から同義語のように用いられることは否めませんが、身近な自分の経験に照らしても(言葉として、どちらかが良いのだ、と言いたいわけではなく)重なるところのない別種の表現なのであろうと思えてくるのです。