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「共同体幻想」

加藤 豊 神父

 

 ここでお話しさせていただくことは、いわゆる「共同幻想」のことなどではありません。そうではなく、「共同体幻想」です。

 

 「それだって結局『共同幻想』だろ?といわれそうですが、わたしにしてみれば「共同幻想」のほうがまだ充分に本来の「共同」の観念を反映したものです(皮肉を言っているわけではありません)。しかし逆に「共同体幻想」には、「共同」の精神に反してしまう側面が(結果的に)多々あります。

 

 さて、本題に入ります。教会的に重要な用語に「共同体」という言葉があります。教会もまた「共同体」なのだと言われますから。実は、何かと言うと、あらゆる場面で、この「共同体」という言葉が用いられます。

 

 日本において、この「共同体」という語はおもに「地域共同体」とか「村落共同体」とか、すなわち「地域社会」における人と人との関わりを連想させ、それが背景として浮かぶ言葉となっていると、わたしは思うのですが、ところが「教会共同体」とは、これ如何に。

 

 なぜなら隣に住んでいる人が同じカトリック信者で、同じ所属教会であるなら別ですが、大概、どの「地域」にあっても、どのような「村落」「市町村」にあっても、そもそも「地域社会」における教会を軸とした人と人との「地域社会的を基盤にした関わり」というのは、もとより宣教地日本では稀であり(というかほとんどなく)、そのため非キリスト教国では「キリスト者の地域社会に根ざした関わり」というのは程を成すことなく、せいぜい、そこでいわれる「共同体」は、狭い範囲に限られた「教会内部」の繋がり、限定的「共同体」としての「教会」という土台によってのみ初めて輪郭が設けられる「共同体」でしかないでしょう。

 こんにちの教会において「共同体」という言葉の重要度は大きかろうとは思いますが、実はこの重要な語からして、なんだか印象としては実態のはっきりしないわけです。使えば使うほど内容が益々ぼやけていくことがあり得ます。もともと集団制の強い傾向を持つと思われる日本人の社会でそこに更に輪をかけて「共同体」という言葉が飛び交っているのが、日本の教会の現実だとわたしには思えるのです。

 例えば、「共同体」という言葉で言いたい内容が「協調性」であるなら、集団内部における各人の課題という問題として個々人の主体性に還元できますが、対して「共同体性」、というと、単純な「協調性」に比して焦点がぼやけて来ます。それは即「協調性」というわけではなく、相手の個人的な意見なども考慮されるであろうから、各々の主体的態度に還元できない、ということになりそうです。

 

 従って、わざわざ「個々人がそれぞれに有する共同体性」という言い方に置き替え、しかも「そのなかで発揮される絆の強さ」という補足をいちいち加えなければ、その内容が還元されるべき主体がそもそも定まりません。ですから、主体性を欠いたままで「共同体」という言葉が一人歩きすればするほど、各人の当事者意識は、ぼやけて行くのも致し方ないのですが、しかし、問題はこうしたカラクリに、「共同体幻想」の渦中にある人はなかなか気づかないということなのです。

 

 そもそも、この「共同体」という言葉は、教会においては、「個人主義的信仰」の回避とか、そこから来る「個人の思い入れ」を凌駕すべき高みとして受け取られていることが多いと感じられるものですが、もともと「集団制の強い日本人であるわたしたち」が、「共同」という言い方をする際には、大概、責任の所在が曖昧になる傾向があり、本来、自分勝手なわがままを是正し、隣人愛を促進する意図が秘められたようなキーワードが、逆に「無責任という結果を招く事例が多く見受けられる」ことにもなり得ます。

 

 ただただ「群れる」ということと、「繋がる」ことと同じではありません。満員電車の車両を共同体とは言いません。同じ時間に同じ場所に居合わせても、ある人は通勤、ある人は通学など、人それぞれに目的はまるで異なるのですから。そんななか、そこで、携帯を使うな、とか、座席を人並み以上に必要としている人たちに譲れとか、車内アナウンスが他者にも配慮せよという旨のことをいうと、そこでようやく、公的な場における「協調性」の意識を有している人は、そのアナウンスを前向きに受け止めたりするわけですが、これだって結局はその人の当事者意識が成せる業なのです。

 

 ところが当事者意識なしの「共同体性」は、実態のない集団や、「大義」のなかに「己が身を隠せる」無責任なものと成り果て流のであって、本来、教会がこの言葉に込めた人と人との関わりという面は著しく変質します。「大義を振りかざす力のある者たちの理屈」となって(本来的なものからは真逆に用いられて)しまったり、はたまた「自由という名で扱われてしまう放縦」に取って代わられたりするでしょう。

 

 人と人とが一緒に何かに取り組むときに大切なのは、実は極単純なチームワークであって、共同〇〇とか、〇〇共存とか、それはチームワークの実態を表すタイトルにしか過ぎません。タイトルから理解せざるを得ないときには、何より概念を精査しなければならず、それが無理なときには、もとより、そういう「無理な言葉」はなるべく使わない方がいいのです。

 

 ことは「共同体」という言葉だけに留まるものではありません。「福音宣教」や「わかちあい」、その他諸々、教会は言葉にならないようなものをも、あえて言葉化しなければならない作業を伴う団体なのですから、わたしたちは「そういう団体のなかにいるのだ」という、そのことを自覚するだけでも、普段は聞き慣れない特定のキーワードに容易く惑わされることもなく、それに(つまりは幻想に)振り回されない習慣が身につくと思うのです。