加藤 豊 神父
「振り返り」という言葉が、いろいろな意味で「効果的でない」ということが実感できた。
こんにち、「分かち合い」は(少なくとも教会内では)広く知られているのだと思う(それが「分かち合い」になっているかどうかはともかく)。しかし、「振り返り」や「自分と向き合う」という表現は、現場によっては、ほとんど「何のことか」と、なってしまうこともある。この神父は何がいいたいのだろう、といった具合に。つまり、これも所詮は「教会用語」だったのか、と改めて想う。
それとは別に、わたし自身が「あまり教会内ではないな」と思えるような感覚の人もいて、皮肉なことに、これまた逆説的だが、教会ならではの現象でもある。どういうことか、「わたしはかつて斯く斯く然々の仕事をしていました。斯く斯く然々のことまでやりました」という業績の誇りである。実際、それは大変だったろうな、とか、凄かったんだな、と、素朴に思うが、教会的には、それらを誇ったところで、あまり意味がない。
小柄で目立たず自己主張もしない人が、実は以前は大会社の重役だったりするのが、教会の一面だ。そいう人ほど、そういうことを語りたがらないところがまた、教会の一面でもあり、それは一種のセンスである。「誇るものはキリストのみ」というパウロは、回心前にはラビ・ガマリエルの優秀な弟子、ユダヤ人でありながらローマの市民権を持っていた当時のエリート、しかし「へりくだる者は高められる」のが信仰なので、そういうセンスは今なお受け継がれている、というのも教会の一面。
ふと、神学生時代を思い出すことがある。「自分は社会人時代は斯く斯く然々だった」または「自分は大学生時代、斯く斯く然々で天才と呼ばれていた」という人もいた。で、結果「だったらこんなところで学んで司祭になろうとせずに、もとの畑に戻ったら」と皆から口々にいわれることになる。
自分を大きく見せたい衝動は多分、人間の通常の感性となっているのかもしれない。ただ、どう考えても、それは信仰という次元からは、重要とはいえず、むしろ、余計に本人を惨めにしてしまう。
教会では「下から目線」こそが敬われる。これも教会ならではの価値観といえよう。それに気づいた「上から目線」は、「上から目線」でいたいがための「下から目線」となり、敬われんがための動機が透けて見えるので、すぐ見抜かれる。
けっこう深刻な社会現象なのかもしれない。こんにち「認められたい」という欲求は、ことのほか激烈なのかもしれない。しかし、そもそも「自分は認められていない」と感じる気持ちは何故起こるのか。本当のところは、皆それぞれ自分自身にしかわからないだろう。
でも「振り返り」とか「自分と向き合う」という表現は響かない。わたしはそうやって歩いてきたものの、いうまでもなく人それぞれに異なるのだろう。などと、この「随想」で「回想」してみた。