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アナログ時計

加藤 豊 神父

 

 何かとても久しぶりにコラムを書いている気がします。

 

 コロナ禍における対策で、各地の教会はそれぞれ絶えざる苦労の中にあると思うのですが、神父たちも各々創意工夫に余念がないだろうことは想像に難くありません。我が身に置き換えてもそうですが、わたしなどは多分「持ち前の不器用さ」から沢山の人の知恵と労力に頼むことも増えつつ、みずからももまた色々な作業が遅れがちです。コラムも実に久しぶりに「あっ、いけない、そろそろやらなきゃ」といった次第です。

 

 こうした特殊な状況下にあっては、普段当たり前のように目の前にしていることをも改めて見直すことができるわけですが、小教区の姿もまた然りだと思います。とりわけここでは、小教区の各委員会の役割をアナログ時計に例えて見ました。だいたい今はデジタル時計が主たる形状ですが、それでもわたしは腕時計を買うときは必ずアナログだったりします(別にこだわりがあるわけではないのですが)。

 

 先ず、ネジ巻きや振り子でない限り、電池を入れなければ壁掛け時計などは動かない。この電池に当たるのはいわば「財務委員会」です。予算がなければミサで使うロウソクさえ購入できません。まあこれは極論ですが。

 

 そして用務員さんのような人材がいます。学校でもそうですよね。この小金井教会では「総務委員会」という名称ですが、教会によっては、施設管理係、営繕担当、庶務と渉外、色々な言い方があるのでしょうけど、いわばこれは電池で動く時計のメカニズムにあたります。財務が予算を出し、その予算で物品を切れた電球や取れたドアノブという必須諸雑貨を購入して取り付けて、教会の使用を円滑にするのです。

 

 そしてアナログ時計の針に当たるのが典礼関係者でしょうね。特に直接ミサなどで奉仕する「見える部分」の「見える人たち」といえばいいでしょうか。実際、舞台演劇などでは舞台に上がる役者さんたちのことを「時計の針」といったりするらしい。その意味では「行事担当」という立場も時計の針でしょうね。その他、年間行事も。

 

 何れにしても電源は電池ですから、これらは組み合わせや細分化、また呼び方などに教会ごとの多少の違いはありますが、大概の小教区はこんな感じの組織体系になっていることが多いです。その時計を見ながら、諸活動が動き、一定のサイクルが形成されます。

 

 ただし、今は特殊な状況のなかにあります。時計を止めては皆が困ってしまうし、無理をすれば時計が壊れます。誰もが経験したことのないこの事態を、静かに手探りで一歩づつ前に進んでいますが、皮肉なことに、だからこそ時計を止められない、ということになります。

 

 これまでは、時計は二の次で、時計を基準とした様々な営みこそが重要視されていてたわけで、ある意味でそれは小教区において当然なことなのですが、これまた皮肉なもので、まさかその営みにこれだけの影響が出るという予想はほとんど誰にも想像できず、今はただ、ぼんやりと時計の前で立ち尽くすだけ、という人も残念ながらいることでしょう。

 

 ハッキリいってしまうと、そうなってしまうのは時計には無関心でいられた教会生活で済んでいた、ということなのだろうと思います。そしてこれが一番残念なことですが、わざわざ時計について知ろうとするくらいなら、教会なんてどうでもいい、となってしまうことです。しかし、普段は意識しなかったこの時計について、興味の有無はともかく、それが小教区の基盤として目立たないところで機能していたことを再認識できた、というのであれば、これこそ教会人としての一つの成長にもなることだと思います。

 

 目の前の世界だけが、世界の全てではないように、目立たないところで重要な役割を果たし、誰からの評価も必要とせず、どこまでもひた向きで地味な無名の人、これこそ神の前で大いなる業であるといわれます。しかしおそらくはそれにも増して信仰が磨かれた後には、そもそも神からの誉れさえ望むこともなく(もとより誉は人の望みに過ぎませんから)、朴訥と、淡々と、折が良くても悪くても、使命を果たしていくでしょう。時計を頼りに生活を送っていたことに気づいた人は幸いです。更に、その時計を見て、見えないところに埋め込まれた電池に気づく人はもっと幸いです。