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復活への希求

加藤 豊 神父

 

 今年は大々的に復活祭をお祝いすることは叶いませんでしたが、これは皆が仕方のないこととして理解できる理由によるものです。現在、新型コロナウィルス(武漢肺炎)感染拡大に対する対応に追われているのが教会の現実で、この度の一件で亡くなられた方々のご遺族が、今どのようにしておられるのかは気になるところです。世界各地でまことにやり切れない思いで日々を過ごされているのではないかと察するに余りあるものです。

 

 日本においては感染による死者についてはあまりリアリティーを伴わないというのが(実際死者おられるのですが)実情のように思われます。そのようななか先日、タレントの志村けんさんが亡くなりました。テレビの画面を通しての身近な人でありましたから、わたし自身は大変ショックを受けました。この病の恐ろしさに一段とリアリティーが生じた事件なのではないでしょうか。思えば、わたしの世代などは、志村けんさんが繰り広げてきた様々な爆笑シーンでもって、幾度となく元気付けられたものでした。

 

 本当に沢山の人が死んでいます。実に悲しい現実です。先ずは事態の終息を願うのが最優先ではありますが、その後は死者の追悼が考慮されねばなりませんし、また、生きている人たちにとっても、既に経済的な影響が各地で現れているために、職場と家庭における教会的なケアもやがては叫ばれてくると思います。よしんばこの先、公開のミサが再開されるような機会が訪れたとしても、当初は以前のような公開ミサと同じようになるわけではないでしょう。つまり、すぐに元どおりに再開されるのではないと予想されます。

 

 元どおりになること、人はよく、これをして「復活」と呼んだりします。確かに、そのとおりなのですが、主が復活されたのは、わたしたちに「死ぬことのない命をもたらすため」でもありました。「元に戻ること」以上に「栄光に向かって新しく始めること」が必要だと思います。

 

 また、ここで重要なのは、「死ぬことのない命に復活された」復活者キリストは、生前に受けた傷をそのままにして復活されたということです。今回、世界中の人たちが例外なく、何らかの形で傷を受けたのは明らかで、そのなかには愛する人を失い、かなりのダメージを負った人たちも多くいるはずです。一旦着いてしまった傷は、元に戻ることはないくらいに深いわけです。その上で、「栄光に向かって新しく始める」ために特別な力が必要とされ、それが内側から湧いてくるような、何かのきっかけが大いに求められてくると思います。

 

 このようなときだからこそ、わたしたちは「主の復活」という出来事について、いつも以上に深く黙想し、全ては主がわたしたちに整えてくださった数々の恵みを思い起こして新たに前に進む準備をして行きたいと思うのです。