例年と異なる今年の復活節は早くも40日間が過ぎ、本日、私たちは主の昇天の祭日を迎えています。
第一朗読で、キリストが高められたあの日のことを思い起こされた私たちは、使徒たちから離れて天に上げられたイエス様が、天に行かれたのと同じ有様で来られることを待ち望んでいます。主の昇天は、イエス様の人間性が確かに天上の神の御国に入られたことを示し、主イエスは教会の頭として、私たちに先んじて御父の栄光の御国に入られました。こうしてその御体の肢体である私たちはいつか、永遠にキリストと共にいるという希望の内に生きることが出来るようになりました。
第二朗読に書かれている「神の招きによってどのような希望が与えられているか」について、聖パウロは他の手紙でこう語ります。「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 」(フィリピ 3・20‐21)。また、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」(コロサイ3・1‐4)。
マタイの福音書の末尾に、主イエス・キリストは「世の終わりまで、いつも共にいる」と最後の約束をなさってくださいます。既に天の上に高められていますが、私たちがキリストの御体の肢体として地上で耐え忍んでいる全てのことをキリストも忍んでおられるのです。現代この大変な世の中において、キリスト者である私たちは、聖パウロが「今や私は、皆のために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と言っていること(コロサイ1・24) を思い出し、実践することが可能なのです。
主イエスは憐れみにより天から降り、全人類の為に一度天の聖所に入られました。そして仲介者として絶え間なく私たちのために執り成し、聖霊が与えられることを常に保証してくださっています。ですから主イエス・キリストの御言葉に従って、「私たちの上に聖霊が降りると、私たちが力を受け、地の果てに至るまで主の証人となります」(使徒1・8参照)。また、 「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせて下さるように」(エフエソ1・18)、 信仰、希望、愛を持って主と結ばれ、既に主と共に天の憩いを味わいながら地上の労苦を耐えるようにしようでは有りませんか。
現在の大きな試練の中でも、私たちが使徒たちの宣教の後継者でありながら、先週と先々週の第二朗読の聖ぺトロの第一の手紙に書かれているように、信者としての職務があります。祭司として、私たちが「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的な生贄をイエス・キリストを通して献げなさい」(2・5参照)。預言者として、「心の中でキリストを主と崇め、あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明出来るように備えていなさい」(3・15))。そして王からの職務も預かり、これに由来する使命の奉仕の責任を担って、私たちが目指している目的地に至る道がどれ程悪くても、上を向いて歩みながら、その望みが変わることは無いからです。
私たちのために、私たちと同じ人間となられた御子イエス・キリストは、私たちを御自分の兄弟にし、すべての人間を御自身のもとに引き寄せ、人類を真の御父のもとへと導いてくださいます。
親愛なる皆さん、心を燃え立てましょう。信じている事柄に対する熱望によって、信仰を燃え上がらせましょう。私たちの希望が天上の物に向かって燃え上がるようにしましょう。このように愛することは既にそれに向かって進むことなのです。
要するに、頭であるキリストと一体となった体である私たちがキリストから切り離されることがなく、私たちが霊的な生贄を献げ、抱いている希望を弁明し、慈しみの業を実践することで、地の果てまで主イエスの証人である使命を全世界の大変な状況の中で、実現出来るように祈り続けましょう。