2020年4月5日 受難の主日(枝の主日)

マタイによる福音書27章11節~54節

 

梅崎 隆一・クラレチアン宣教会

 

 マタイの福音書では、イエスがユダヤ人の王としてお生まれになり、異国の地から博士たちがやってきたとき、ヘロデは不安に思い、人々も同様であったとあります。神様は人が好きで、好きで、仕方がなくて人間になられこの地上に来られました。しかし、神様以外のものを神様以上に大切にする人間にとって、神の愛は不安の要素にしかなりません。神様は「独り子を見たものが、ひとりも滅びることなく永遠の命を得るために」人間になられたのですし、この神様の思いが天で行われるように、地でも行われるなら、私たちはとても幸せになれるはずです。しかし、支配者や人々は不安に思います。

 

 やがて月日が過ぎて、人々はイエスを王としてエルサレムに迎え入れますが、自分たちの望みとは違う王であると考えたとたん、十字架につけようと熱狂します。

 

 この聖書の群衆は現代の大衆によく似ていると思います。大衆の特徴というのは、多数決の原理でたくさんの人が言っているからそれが正しいというものです。「イエスを十字架につけろ」と多くの人が叫んだらそれは正しいことということになります。いわゆる民主主義の限界というものです。しかし沢山の人が正しいと言ってもやってはいけないことがあります。

 

 仮にこの世に神様が存在せず、人間だけしかいないのであれば、確かに人間が神様にとって代わって何でも決めていかねばなりません。ある日、沢山の人たちが「一人の人の存在は地球よりも重い」といえばそうなりますが、次の日、「人の命には価値の高いものと低いものがある」と変えることができることになる。しかし人間の尊厳を人間が好きなように扱ってよいわけではない。自分をいじめたり、自殺に追い込んでもいけないのは、人間は人間を超えたものによって尊厳が与えられているからと言ってもよい。今の社会でも、門地や学歴、仕事などで貴賤を決める空気が多くの人によって無言のうちに認められていますが、人を越える方は、多くの人が見捨てても、絶えず温かい眼差しを注いでくださっていることを、神様ご自身が受難を受けられることによって証明されました。

 

 昨年の末から中国で猛威を振るい、今年の二月末から世界的に蔓延したコロナウイルスの問題は権力と人権という大きな問いを私たちに突き付けています。医学的科学的な観点から隔離を推奨しますが、経済的には大きなダメージになります。そして、生きるということは、生物的、経済的観点からだけではなく、いかにして尊厳をもった人間として生きるのかという問いとなって突き付けられています。

 

 新聞の投書などには、学校や塾、習い事がなくなってヒマで困るというのがありましたが、この自由の重荷をどう引き受けるかということは、これからの長い人生の中でとても大きなチャレンジになります。そして権力から自粛を要請され、マスコミがいろんな情報を受ける中で、自由の重荷を捨てて単に従うだけでは自由のない大衆となってしまいます。そんな中で、私たちは神に愛されている子どもとしてどのように理解するかが問われます。

 

 全ての人が愛されているということから考えるなら、ウイルスに感染した人をバッシングしたり、その家族に対する差別などを行ったりすることはないはずです。自分の自由意思を持って、差別をしないというこの重たい決断をしなければ尊厳を持っている人間を生きることができません。社会の空気がいじめてもよいと言っても、人間の尊厳を守り抜くために生きることの素晴らしさをイエスの受難は示しています。

 

 社会の空気や力を持った意見に左右されやすい私たちですから、自分で決断する自由を捨て、全体の一部になり大きな力に依存したいという大きな誘惑があります。しかし人となられた神の子イエスはご自身の受難を通して、人から迫害されても、神である父に愛されている尊厳ある人間の素晴らしさを示されます。

 

 神が私たちの王になったときに、私たちは自由に生きるものとなります。神以外のものが神になるときに、人間の自由を束縛するものとなります。戦争、天災など人間を超える大きな力が襲い掛かってきても、多くの人からバッシングを受けても、自由意思を持ってその重荷を引き受け、人間の素晴らしさを輝かせることができることを教えてくださった主のように、人間らしく生きる者となることができますように。