教会関係者であれば皆が知っていることですが、2月27日(木)から3月14日(日)までの間、主日、週日に関わらず、現在、公開のミサは中断されています。新型コロナウィルスの感染拡大に伴う対応です。3月15日(日)からミサが再開されるとは言え、それらを巡る対応は慎重さを欠いてはならず、以降も種々の活動は適宜、自粛を考慮しながら事態の終息を祈りのうちに待つばかりです。
ここでは、期間中の3月1日(日)にお話しする予定でいたことを書きました。この日のミサの福音箇所に関して私の思うところを書きました。ミサにおいて朗読される予定だった福音箇所は、マタイ4章の「荒れ野に赴いたイエスが誘惑を受ける」場面です。
先ず、4章3₋4節、これは「いい提案」ではないでしょうか。もちろん「嘘つきの父」と称されるような側の提案ですから、鵜呑みには出来ないとしても、石をパンに変えて飢えを満たせるなら、世界中の食糧危機に喘ぐ人たちのためにはこれはいいです。イエスは食料問題を解決できるわけです。ところが主はこの「いい提案」を退けられました。
次に、4章6₋7節、これも「いい提案」ではないでしょうか。以前に某カルト教団がもとで話題になった「空中浮遊」ですが、そんな超常現象を見せられたら、誰だってあっさり信じてしまうでしょう。だからこの提案は、「宣教が進まない」と言って信者数の増加ばかりを気にするような人たちからは、「もし、主がこの提案を呑んでくれていれば、今頃、この日本を含めて世界中はキリスト教徒で溢れていたかもしれないのに」と、感じておられるかもしれないですね。しかし、そんな発想はまことの宣教と相いれませんから、イエスはこの提案も退けられました。
最後に、4章8₋10節、またもや「いい提案」です。EUの代表(一応「大統領」という呼称が使われるらしいのですが)や国連事務総長よりも、主ご自身が国際社会全体を世界規模で導いてくれるなら、きっとみんな安心でしょうね。この度の新型コロナウィルスの問題を思えば、前の二つの提案以上にこれは「いい提案」に思えてきます。これが実現すればきっと大規模な戦争から小規模な地域紛争に至るまで、解決されるのではないか、と思えてしまうのです。イエスがこの世のトップなら、それが望ましいと思えてしまうのは、多分、キリスト教徒だけではないでしょう。つまり「宗教対立」さえ克服されるかもしれません。やはりこれまた「いい提案」と思えますが、またもや主はそれを退けられました。
さて、ここまで読むと、私はいつも在りし日のマザーテレサを思い起こすのです。マザーが来日した折、沢山の報道陣が言いました。「もっとマスコミを使っていただきたい、そうすれば、あなたの活動はもっと広く知られて寄付が増すでしょう」、また、「どうか日本からの援助も受け取って欲しい。私たちも広報活動で協力しますよ」と。その他諸々、種々様々な方々からの「いい提案」があったわけですが、全て退けたのでした。
挙句にこう仰ったのが、衝撃的でした。「こんな貧しい人たちからは一銭も受け取れません」。
当時はまだ不況や就職難などは深刻なものでなく、むしろ貿易摩擦を巡って「No、と言える日本」などが出版されたような時代です。好景気かどうかはともかく、その頃の日本の景気は今とは全然違います。それどころか今だってお金はどうやら「あるところにはある」と言った状況で、それでいて食べるに困ると言った風潮も残念ながら現実感を伴わない報道のされ方です。しかしながら、それくらいのことは重々承知なインテリも真っ青なマザーの一言、「こんな貧しい人たちからは一銭も受け取れません」。これはどういうことでしょうか。
と、まあ、そのような教話を、と思っていたのですが、ミサは中止です。こればかりは仕方ないことであります。とは言え、この箇所をどう読んだらいいのか、という問い合わせもあって、今回、記事にいたしました。
今は昔、古代ギリシャの哲学者でエピクロスという人がいました。パウロがこのエピクロス派の人たちやストア派の人たちとの前で福音を語ったことが使徒言行録に記されていますよね(使徒17・18)。多分その人たちの拠点は「エピクロスの園」という学校だったはずですが、そこではエピクロスの言説が研究されていたわけです。人間にとって幸福な状態とはどのような状態か、というテーマは現代でも誠実な探求者にとって重要なものです。
エピクロスはそれを「アタラクシア」(満たされた実感)と説明しています。「有るもので足りないと思う人は、何を得ても足りない」。つまり、足りないとばかり感じている人こそ、真の貧者ということでしょう。では、既に有るもので満ち足りていると実感し、それに喜びを感じている人の場合は?それは真の富貴ではないかとエピクロスは考えます。実際「いただいた恵みへの感謝」は、それに気づいていなければ沸き起こってきません。
マザーの来日年とはピッタリではないにしろ、バブル期の日本人の鼻息は荒く、特に昨今、話題になることがある半導体の世界シェアは当時ほぼ日本が市場独占を手中に収めていたような雰囲気もありましたから、「No、と言える日本」にはアメリカを恫喝するような内容にまで触れています。ようは、ソ連(当時)に半導体を売ってアメリカを困らせることも出来る」と言ったニュアンスを漂わせているのです。
技術大国であることは誇らしい。しかし、充分あっても不充分だと考える人にとってはいつまでも、これで充分だという実感は得られないでしょう。それはマザーの眼から観れば「貧しい」ことだったのです。特にそういう批判の矛先はマスコミに向けられたのは言うまでもなく、今でもマスコミの報道姿勢に関して言うと、まるで野獣のような振る舞いも残念ながら見受けられます。その「飢え」は、根本的な報道姿勢が変わるまではいつまでも満たされずに獲物を追い求め続けることになり、これからも犠牲者が出てしまうのでしょう。
実際、この度の新型コロナウィルスの感染拡大さえ、メディアによっては政治利用しているような気がしてなりません。もちろん詳細は調査してもらいたいし、知る権利にも応えてもらいたいが、扇動報道はやめていただきたいし、特に災害地域に現地の人たちの悲しみを無視して土足で踏み込むようなことは本当にやめてもらいたいです。行政への責任追及だって事態が終息してから根気よくやればいいのに、今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ、と、実にマザーが感じた嫌悪感にはうなづけるのです。
さて、この四旬節、私たちは「足るを知る」ような振り返りを行うことが叶うでしょうか。既にいただいている恵みを他所に、欲っしている何かだけに意識が傾いてはいないでしょうか。
「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」(マタイ25・29)。
私はかつてこの御言葉が怖くて仕方ありませんでした。自分には何の能力もなく、果ては病気によって健康までも奪われ、この後、一体何が奪われてしまうのだろう、と不安になりました。ただ、そもそも、自分に与えられたものって何があるのだろうと考えてみると、幸い、私自身に何の能力もないとしても、能力のある友達には恵まれていたことに気づいたのです。
今では、そのような友人知人の数もありがたいことに何人か増えました。その人たちの助けでもって、何とか今は仕事ができているというのが現実です。ありがたいことです。更に与えられたのです。
何事も一見「いい提案」に思えるものは、ひょっとしたら提案の出所によっては誘惑が秘められている、そんな風に思うのです。