2020年6月21日 年間第12主日

マタイによる福音書 10章26~33節

 

 東京教区神学生助祭

フランシスコ・アシジ 小田 武直

 

隠されているもので知られずに済むものはない

 

 

●「十字架につけられ、隠された神」

 

 「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」。今日の福音でイエス様はおっしゃいます。

 

 16世紀のいわゆる宗教改革の火付け役といわれるマルティン・ルターは、「十字架につけられ、隠された神」というものを追求した人です。神の栄光は、この世においては、十字架上の怖ろしく、惨めで、無力な有りさまのうちに隠されている。すなわち、人が神について思い描く、崇高さ、気高さ、力強さなど、ありとあらゆる素晴らしさとは、正反対のあり方を通して示されたのだという洞察です。その表れが復活だったのであり、そこで私たちは神の栄光が人の目には全く隠された逆説的な姿で表わされていることを知るようになるのだとルターは考えました。それは、私たち人間がもはや、自分自身の良い行いや素晴らしさによって神に近づき得ない根本的な欠陥を持ったがゆえ、その私たちを救済する手立てとして、神が人間の罪を担い、苦しみや惨めさを身にまとうことを通して、ただ恵みによって救われる道を拓いて下さったのだ、という理解です。

 

 

●この世において隠されている神

 

 私たちの世界を見渡してみると、そのようなイエス様の救済のみわざとは全く真逆の世界観がはびこっており、まさにイエス様の救いはこの世においては隠されているようです。人生の価値とは、きらびやかなもの、力強いもの、ありとあらゆる素晴らしいものを獲得することだ、それは自分の手によって勝ち取るものだ、そのために脱落する者があっても構わない、このような世界観が私たちの世界を覆い尽くしています。

 

 これは何も今の社会に限ったことではなく、太古の昔から人間社会において確認されてきた現象です。生きとし生ける者には、全て生存競争という厳しい規律が課せられていますが、人間はそれを越えて、自然界では類を見ない程、激しい生存のための戦い――格差やエゴとエゴのぶつかり合いである争いや分裂の歴史を繰り返してきました。旧約聖書をひもとくと、神からの離反に始まり、人間がエゴイズムを膨張させて、互いにあい争い、弱い者を踏みつけにする出来事が随所に描かれています。福音書においても、同じような様相が繰り広げられ、イエス様の周りには、為政者の圧制に苦しめられ、弱くされた民衆たちがひしめきあっていました。そのことは宗教の世界においても、無縁ではありません。イエス様がたびたび敵対した宗教指導者たちは、自分たちこそ神によしとされる知識や善行を所有しており、これらのことを条件に、神の恵みに与ることができるのだ、そのことに沿うことができない者は見下し、排除し、踏みにじることも厭わない、そのような神理解、信仰理解に立っていました。このような態度は、さらにキリスト以後の世界においても脈々と生き続け、フランシスコ教皇様は、現代の聖性に関する危険な現象として、『使徒的勧告・喜びに喜べ』の「第二章 聖性の狡猾な二つの敵」において、厳しく指摘されています。

 

 以上のように、古代から現代に至るまで私たちの世界には、社会的な事柄においても、宗教的な事柄においても、どこかで自らの力を頼みとし、私自身の栄光と繁栄を望む傾きが潜んでいます。それは元来、力への欲望を組み込まれた人間にとって宿命的なことなのかもしれません。

 

 

●覆われているものを現していくために ~イエスの仲間となるために~

 

 ところが、福音書に描かれるイエス様は、そのような人間的欲求とは全く逆行するあり方を示しています。「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5・3)、「義のために迫害される人々は、幸いである」(マタイ5・10)、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16・24)、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。このようにイエス様が示して下さった人間にとっての幸いへの道、救いへの道は、むしろ、私たちが自分を小さくして、自らの苦しみや暗闇を十字架として担い、そして共に担って下さる方に全幅の信頼を寄せて歩む態度でありました。その究極がイエス様の十字架の死と復活です。イエス様は人の目から見たら、惨めさや弱さの極みである姿を通して、全く同じように自分で自分を救うことのできない惨めで弱い人間全てが、救われる道を拓いて下さったのです。それは人の世には覆い隠されている神の栄光の現れでありました。

 

 このような、イエス様の救いを、イエス様の言葉と行いを、それとは全く逆行する世の価値観の中で表わすことは勇気のいることですし、世の逆風を受けることも必定です。しかしながら、そのような私たちにとって、今日の福音箇所のイエス様の言葉は、大いに希望を抱かせるものとなるのではないかと思います。

 

 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」

 

 私たちがいわれのない反感や、悪口を浴びせられるとき、そこには同じ苦しみを背負って下さるイエス様がいて下さいます。私たちが惨めさや弱さに打ちひしがれるとき、そこには十字架を通して、復活して下さった神の栄光が、現れて下さいます。イエス様の救済は、この世の人間的なあらゆる価値観、志向性を顛倒させ、そこには全く望みがないことを明らかにして下さいました。そのことはこの世においては隠されていますが、決して現されないものではありません。私たちがこの世界のあらゆる悲惨さや、弱くされた人々の中に働かれる神のみ旨を見つけ出し、実践していくことを通して、闇で覆われている世界は、神の栄光で輝き出すのだと思います。

 

 コロナ問題で苦しむ世界のただ中にも、その苦しみを通して働かれる神のみ心が隠されているのだと思います。私たち一人一人一人が隠された神のみ旨を尋ね求め、また与えられた気づきを、恐れることなく表わしていくことができますように、その力を願い求めたいと思います。