2020年6月28日 年間第13主日

マタイによる福音書 10章37~42節

  主任司祭

加藤 豊 神父

 

 

「自分の十字架」って何だろう

 

 

 イエスにとって十字架は栄光でした。それは苦しく、耐え難く、かくも辛い当時の極刑です。できればそれはイエスご自身も避けたい仕方ではなかったでしょうか。もし、他にも救い主としての道があるならば、十字架以外の道のほうが望ましかったのかもしれません。しかし、あえて天の父は、人類救済の為に救い主にこれを与え、イエスもこれを受け止めます。わたしたちの目から見て、残酷さこの上ない十字架刑は、イエスにとって神の栄光のシンボルです。

 

 ところで、わたしたちにとって「自分の十字架」とは何でしょうか。音楽が好きな人は知っていると思いますが、エリック・クラプトンという歌手がいます。わたしの世代でギターを弾くような人の場合、必ずこの人を知っているわけですが、彼はもともと、クリームというバンドにいました。もう昔からあの声であのギタープレイです。それは本人が望んだものというより、背負わされたものと言ってもいいでしょう。しゃがれた歌声は、ああいうの「ハスキー」というのでしょうか。ガラガラ声です。ルイアームストロングとか、日本でいうとかつての森進一でしょうか(ちょっと違うかな?演歌ではないですからね)。そういうタイプの声ですね。およそクラッシックには不向きです。これだって本人が望んだわけではありません。実は、そのクラプトンですが、もともと黒人音楽が好きで、黒人に生まれたかったくらいの人です。彼が特に好きだったのはBBキングという黒人のブルース歌手です(わたしも好きですが)。ですから白人に生まれたことも、黒人に生まれなかったことも、彼自身が望んだことではないわけです。

 

 こんにちアメリカにおける人種問題のニュースをよく見ます。黒人の大統領まで誕生したアメリカ合衆国で、「なぜ今に至っても」と思う方々、多いのではないでしょうか。しかし、よく考えてみればキング牧師やツツ司教、ネルソン・マンデラ氏も昔の人というにはあまりにも近すぎる過去であります。もっと昔のことになりますが、黒人は音楽学校に入ってもジャズくらいしか学べず、クラッシックの世界からは遠ざけられていましたし、今もそういう感じかもしれません。ある意味で彼らの十字架があるわけです。そんな時代、彼らは虐げられている悲しみを歌に込めました。ブルースです。声楽家の透き通るような声とは対照的に、霞んだガラガラっとした太い声で、心の叫びを歌うのです。背負わされた十字架が重くて痛くてどうしようもなくて魂が叫びを上げるのです。

 

 黒人のブルースは白人たちの魂をも揺さぶる衝撃的なものでした。やがてこれらがきっかけとなり、白人たちが黒人たちの真似を始めるのです。白人たちもまた自分が白人であることから来る十字架を背負うことにもなります。そして今や白人もガラガラ声でブルースを歌い、ジャズに心酔し、レゲーまで真似ています。というか、ロックンロールはもともと白人が黒人から教えてもらったようなもので、さらにそれを日本人で黄色人種のわたしも若い頃は真似ていました。

 

 黒人たちは自分が黒人であることを捨てることはなく、それを背負い、そこに神の栄光を見出そうとし、救い主であるかたがそうしたように自分の十字架を背負い、神に栄光を帰そうとします。ニューヨークのハーレムチャーチには、彼ら独特のゴスペル(黒人霊歌)が木魂します。それはジャジー(ジャズっぽい)で、ブルージー(ブルースっぽい)で、魂の叫びです。苦しみの象徴のような十字架は、それを受け入れ背負う者には神の栄光を輝かせるほどになるのであれば、人は自分自身を生きるしかなく、その意味で自分の十字架は自分自身なのかもしれません。