皆さんもご存知のように、今年の灰の水曜日の翌日、即ち2020年2月27日(木)から東京教区の教会においては公開のミサを中断しています。従って、今年の復活祭は大々的にお祝いされることはないばかりか、「小ぢんまりと」祝われることさえありません。戦争でもないのに、毎日、世界中で人が死んでいます。そう思うと、そもそもお祝いが出来るか、出来ないか、ということ以前に、お祝いする気分になれない、という思いにさえなっているのは、きっとわたしだけではないでしょう。
目の前で、あるいは遠く離れたところで、愛する人の死を見聞きし、悲しみに沈む人たちがいます。今はまだあまり話題にはなりませんが、最終的に何人の人が亡くなり、その周りで何人の人が辛い思いをすることになるのでしょうか。
主が十字架上で息を引き取られた後、全ては終わってしまったかのような気持ちで悲嘆に暮れていた福音書の登場人物たち、彼女ら(彼ら)はその三日後の週の始めの日、イエスが葬られた墓に赴きます。そうです、お墓まいりに行ったのです。そのお墓という命の最終地点となる場において、彼女ら(彼ら)は新しい命の出発点を体験することになりました。
復活は、かつて「蘇生」のイメージで描かれることが多かった。絵画や映画ではそれが一番視覚的な影響としてストレートな表現だからです。しかし、ラゾロの復活ならそれだけでいいが、いうまでもなく主の復活は神秘に類する出来事ですから、ストレートなイメージがそのまま実在として受け取られてしまうことに対する注意が必要でしょう。
それは何より、「元に戻る」ことではなく、「新たな命に生きる」ことなのです。
この度の新型コロナウィルス(武漢肺炎)が齎した爪痕は深く大きく、世界はもう、元に戻らない、といってしまっては言い過ぎでしょうか。少なくとも愛する人を失った人たちの悲しみは消し去りようもありません。加えて世界規模の経済低迷も各国の政治的な問題も指摘されており、近年予想打にしなかった状況を迎えています。
やがてはこの事態も終息に向かう日が来るのであろうとは思いますが、その後の教会も、もう2月26日以前には帰れず、その意味では、元には戻れないでしょう。公開のミサが再開されても、しばらくは奉納を控えたり、手指を消毒したり、ということが続くかもしれません。
それゆえ、たとえ暦の上でしか今年の復活節を過ごせないとしても、今年これだけは意識してその日々をおくりたい、と思うのはことがあります。それは「新たにされることへの願い」です。元に戻るだけなら、またときが経てば同じようなことになるでしょう。ラザロの復活だけなら、ラザロにはまた寿命がやって来るわけです。
しかし、「主イエス・キリストの復活」は、単に元に戻してくれるものではなく、新しい命に生きることへの象徴的示唆をわたしたちに与えてくれるものです。その日には、世界各地の教会で心の底から主の復活を賛える喜びの声が鳴り響くことでしょう。
今はただ、それを希望のうちに待っています。