2020年5月17日 復活節第6主日

ヨハネによる福音書14章15節~21節

 

イエズス会

竹内 修一 神父

 

「みなしごにはしない」と語られた

 

 

 イエズス会に入会後、まもなく、二年間にわたる修練院での生活が始まりました。当時そこには、ヨゼフ・メスネルという神父さんがいらっしゃいました。すでに90歳位だったでしょうか。チロル地方出身で、宣教師として日本に来られたのは、戦前です。主に山陰地方を歩きながら、一つまたひとつ、と教会を建てられてゆきました。印象的だったのは、神父さんの笑顔と、佇まいそのものが祈りであった、ということです。その影響を受けた人は多く、少なからずの人が、司祭・修道者となりました。食後の洗い物の時、ニコニコしながら一緒に食器を拭いていた姿が、懐かしい。イエスを感じさせてくれる――そういう方でした。この世を去られたのは、1996年7月26日。100歳位だったでしょうか。2か月後、僕は、叙階の恵みに与りました。

 

告別説教

 

 最後の晩餐の席で、イエスは弟子たちに、「自分は父のもとに帰る」と語りました。すると彼らは、たちまち不安を抱き恐れおののきます。しかし、イエスは、「心配しなくてもいい」と彼らを慰め、さまざまなことについて語ります。この一連の話が、「告別説教」と言われます(ヨハネ13~16章)。「あなたがたをみなしごにはしておかない」(14:18)という言葉をはさんで、イエスは、二つの約束をします。一つは「別の弁護者」の派遣であり、もう一つは自身の再来です。

 

弁護者

 

 「別の弁護者」とは、神が、イエスの名によって派遣する聖霊であり、「真理の霊」とも言われます。聖霊は、私たちに、イエスの言葉を思い起こさせ、その意味について教えます。「弁護者」(パラクレートス)とは、「そばに呼ばれたもの」という意味ですが、教師・証人・保護者でもあります。世は、この弁護者を見ることも知ることもできません。しかし、もしイエスを信じるならば、それは可能となります。ちなみに、第一の弁護者とは、イエス自身です(1ヨハ2:1)。

 

「愛すること」と「信じること」

 

 イエスは語ります――「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」イエスの掟とは、イエスが私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うということ(ヨハ13:34参照)。この掟は、イエスへの信仰に留まるかぎり、可能となります。それゆえ、彼はまた、こう語ります――「わたしの掟を守る人は、わたしを愛する者である。」

 

 イエスの語る愛は、決して、盲目的なものではありません。むしろ、それは、極めて目覚めたものであり、自らのいのちそのものとも言えます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15:13)。「信じること」も、同様です。決して、それは、盲信ではありません。「知ること」(理性)と「信じること」(信仰)――これらは、本来、矛盾・対立したものではなく、むしろ、一つとなって私たちを活かします。

 

 かつて、アンセルムス(1033-1109)は、私たちが目指すべき信仰は、「知解を求める信仰」である、と語りました。

 

信仰を生きるとは

 

 このような信仰は、ただ単に、自己完結するものではありません。むしろ、それは、周りの人々へと広がりゆくものです。ペトロは、こう語ります――「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(1ペト3:15)。「心」は、肉体的・精神的・霊的生命の中心です。聖書において、「心」は、感情の場というよりは、むしろ理性や意思の働く場と考えられています。たとえ拙くても、素朴な言葉で語ることができたら、幸いです。たとえ語ることができなくても、静かな喜びを味わうことができたら、それはきっと、ささやか祈りとなるでしょう。